夏の江戸城址 [関東]
今日は(今日も?)暑かったですね。
気温という意味でも、今年は暑い夏ですが、オリンピック、甲子園、それに一位と二位が熱戦を
繰り広げるプロ野球など、スポーツの世界も暑い夏になってますね。
そんな中、別にこんな日に行かなくても良いのに、というタイミングで、今日、江戸城址を
散策してきました(笑)
暑かったですけどね。でも、それなりに観光客はいましたよ...
で、まずは、逆さ富士ならぬ、逆さ巽櫓、からスタートです、
気温という意味でも、今年は暑い夏ですが、オリンピック、甲子園、それに一位と二位が熱戦を
繰り広げるプロ野球など、スポーツの世界も暑い夏になってますね。
そんな中、別にこんな日に行かなくても良いのに、というタイミングで、今日、江戸城址を
散策してきました(笑)
暑かったですけどね。でも、それなりに観光客はいましたよ...
で、まずは、逆さ富士ならぬ、逆さ巽櫓、からスタートです、
タグ:江戸城
佐倉城 ~日本100名城~ [関東]
千葉県佐倉市にある佐倉城に行ってきました。
佐倉城は、徳川家康に命じられた土井利勝により築かれた城で、慶長15年(1610年)に着工、
元和2年(1616年)に竣工しました。石垣を用いず、堀と土塁で囲まれた城で、土井氏の後も、
江戸の背後を固める城として、代々、譜代大名の居城となりました。
その後、明治維新にともなう廃城と、その後の陸軍による跡地利用により、土塁が崩され、堀は
埋められるなど、一時は原型をとどめないまでになっていましたが、椎木曲輪跡に歴史博物館を
建てるに際して、発掘調査が実施され、空堀や土塁が整備されて今に至っています。
今回は、城址の南側から、中へと向かうことにしました。
まずは、南側の出丸から三の丸の下へと伸びる土塁です。400m以上ありそうです。
佐倉城は、徳川家康に命じられた土井利勝により築かれた城で、慶長15年(1610年)に着工、
元和2年(1616年)に竣工しました。石垣を用いず、堀と土塁で囲まれた城で、土井氏の後も、
江戸の背後を固める城として、代々、譜代大名の居城となりました。
その後、明治維新にともなう廃城と、その後の陸軍による跡地利用により、土塁が崩され、堀は
埋められるなど、一時は原型をとどめないまでになっていましたが、椎木曲輪跡に歴史博物館を
建てるに際して、発掘調査が実施され、空堀や土塁が整備されて今に至っています。
今回は、城址の南側から、中へと向かうことにしました。
まずは、南側の出丸から三の丸の下へと伸びる土塁です。400m以上ありそうです。
臼井城址(千葉県) [関東]
今回は、かなりマイナーではありますが、千葉県佐倉市にある、臼井城址を紹介したいと
思います。
臼井城は、14世紀半ばに、下総国を支配していた千葉氏の支族である臼井氏によって築かれた
城で、その後、原氏を経て、天正18年(1590年)に徳川家康の家臣の酒井家次が3万石で入封
します。
その家次が慶長9年(1604年)に高崎藩に移封となり、臼井城は廃城となりました。今では、
わずかに、土塁や空堀が残る程度ですが、戦国期には佐倉城よりも重要な拠点だったようです
し、佐倉城を訪ねる際には併せて訪れたいですね。
これはⅡ郭です。いわゆる二の丸でしょうか。
思います。
臼井城は、14世紀半ばに、下総国を支配していた千葉氏の支族である臼井氏によって築かれた
城で、その後、原氏を経て、天正18年(1590年)に徳川家康の家臣の酒井家次が3万石で入封
します。
その家次が慶長9年(1604年)に高崎藩に移封となり、臼井城は廃城となりました。今では、
わずかに、土塁や空堀が残る程度ですが、戦国期には佐倉城よりも重要な拠点だったようです
し、佐倉城を訪ねる際には併せて訪れたいですね。
これはⅡ郭です。いわゆる二の丸でしょうか。
飛山城址 (栃木県宇都宮市) [関東]
先月、栃木県宇都宮市にある、飛山城址に行ってきました。
そもそも、私の住む埼玉県に隣接する栃木県の城址ながら、最近まではその存在すら知らなかった
のですが、大規模な堀や土塁が見事に整備・復元されていて、かなり見ごたえがありました。
ただ、日曜日だったにも関わらず、見学者は自分のみ。いかにマイナーな城か、ってことでしょうね。
この飛山城址は、鎌倉時代の後半に芳賀高俊によって築かれたと伝えられ、豊臣秀吉の命で破却
されるまでの約300年間、芳賀氏の重要な拠点として機能してきたそうです。
そもそも、私の住む埼玉県に隣接する栃木県の城址ながら、最近まではその存在すら知らなかった
のですが、大規模な堀や土塁が見事に整備・復元されていて、かなり見ごたえがありました。
ただ、日曜日だったにも関わらず、見学者は自分のみ。いかにマイナーな城か、ってことでしょうね。
この飛山城址は、鎌倉時代の後半に芳賀高俊によって築かれたと伝えられ、豊臣秀吉の命で破却
されるまでの約300年間、芳賀氏の重要な拠点として機能してきたそうです。
波多野城と源実朝公首塚 [関東]
先日、神奈川県秦野市にある波多野城址と、その近くにある源実朝公の首塚に行ってきました。
ここは、知名度はかなり低いと思うのですが、それでも行ってみた理由を先に、書きたいと思い
ます。
実は、「ネットの電話帳」というサイトでは、苗字と地域を入えると、対象地域にお住いの方が
検索できるんです。これを知った私は、ブログのニックネームのとおり、武のつく苗字のため、
武で始まる苗字がどこに多いか、見てみたんです。そこで分かったのが、競馬の武豊さんと同じ
「武」という苗字が、例えば埼玉県には30世帯程度なのに、神奈川県の秦野市だけで60世帯も
あり、更に秦野市寺山、という地域だけで31世帯もある、ということでした。
これは何か由来があるに違いない、と、さらにネットで調べてみると、何と、その起源は鎌倉時代にまで遡ることが分かったんです。
それは承久元年(1219年)、鶴岡八幡宮で若くして非業の死を遂げた三代将軍源実朝公の御首が
行方不明になりましたが、当時三浦郡武村(現在の横須賀市武川)の領主だった武 常晴がその
首を見つけ、波多野氏を頼ってこの地に葬り、そのまま寺山に移り住んだ、という歴史があるんだ
そうです。
それを知り、今回、波多野氏の居城だった波多野城址と、源実朝の首塚を見に行くことにしたん
です。
ここは、知名度はかなり低いと思うのですが、それでも行ってみた理由を先に、書きたいと思い
ます。
実は、「ネットの電話帳」というサイトでは、苗字と地域を入えると、対象地域にお住いの方が
検索できるんです。これを知った私は、ブログのニックネームのとおり、武のつく苗字のため、
武で始まる苗字がどこに多いか、見てみたんです。そこで分かったのが、競馬の武豊さんと同じ
「武」という苗字が、例えば埼玉県には30世帯程度なのに、神奈川県の秦野市だけで60世帯も
あり、更に秦野市寺山、という地域だけで31世帯もある、ということでした。
これは何か由来があるに違いない、と、さらにネットで調べてみると、何と、その起源は鎌倉時代にまで遡ることが分かったんです。
それは承久元年(1219年)、鶴岡八幡宮で若くして非業の死を遂げた三代将軍源実朝公の御首が
行方不明になりましたが、当時三浦郡武村(現在の横須賀市武川)の領主だった武 常晴がその
首を見つけ、波多野氏を頼ってこの地に葬り、そのまま寺山に移り住んだ、という歴史があるんだ
そうです。
それを知り、今回、波多野氏の居城だった波多野城址と、源実朝の首塚を見に行くことにしたん
です。
岩槻城址 (人形供養祭と鷹狩り行列) [関東]
11月3日、特に出掛ける予定もなかったのですが、天気も良かったので、ぶらっと、岩槻城址に
行ってみました。年に一度のイベントが開催されてるとは知らずに。
まずは、岩槻城の長屋門。城内の位置は明らかではありませんが、廃藩置県とともに撤去され、
埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門などに利用された後、1970年にこの場所に
移築されました。
その城門の前にはたくさんの人形たちが。。。
行ってみました。年に一度のイベントが開催されてるとは知らずに。
まずは、岩槻城の長屋門。城内の位置は明らかではありませんが、廃藩置県とともに撤去され、
埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門などに利用された後、1970年にこの場所に
移築されました。
その城門の前にはたくさんの人形たちが。。。
逆井城址 (茨城県坂東市) [関東]
茨城県にある逆井城址。その名前は聞いていましたが、決して有名な城址とは言えないことも
あって、自分の住む埼玉県のお隣の県ではありましたが、これまで行く機会はありません
でした。そんな逆井城址に先週行ってきましたが、行って驚いたのは、本丸や二の丸を囲む
大規模な土塁と空堀が、ほぼ手つかずのまま、今に至っていることです。これは、お城ファン
必見です。
その逆井城ですが、もともとは逆井氏の拠点だったところで、享徳年間(1452~54年)に
築かれたとか。その逆井氏は後北条氏によって滅ぼされました。その後、天正5年(1577年)に、
後北条氏の北関東進出の拠点として、佐竹氏などとの領国の境目に、逆井氏の居城を利用して
今の逆井城が築かれました。玉縄城主北条氏繁が築城したそうです。その後、天正18年
(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めの際に廃城になりましたので、利用されていたのは
わずか13年ですが、大規模かつ本格的、なお城であったようです。築城は最先端技術を駆使して
行われ、空堀幅は12~13m平均。塁壁は真直ぐではなくクランク状に屈曲させる横矢掛かりを
8か所施しました。また城門には櫓門である二階門を構えました。
まず、こちらは、西外濠と、正面に井楼矢倉。右奥に見えるのが二層櫓(物見櫓)です。
あって、自分の住む埼玉県のお隣の県ではありましたが、これまで行く機会はありません
でした。そんな逆井城址に先週行ってきましたが、行って驚いたのは、本丸や二の丸を囲む
大規模な土塁と空堀が、ほぼ手つかずのまま、今に至っていることです。これは、お城ファン
必見です。
その逆井城ですが、もともとは逆井氏の拠点だったところで、享徳年間(1452~54年)に
築かれたとか。その逆井氏は後北条氏によって滅ぼされました。その後、天正5年(1577年)に、
後北条氏の北関東進出の拠点として、佐竹氏などとの領国の境目に、逆井氏の居城を利用して
今の逆井城が築かれました。玉縄城主北条氏繁が築城したそうです。その後、天正18年
(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めの際に廃城になりましたので、利用されていたのは
わずか13年ですが、大規模かつ本格的、なお城であったようです。築城は最先端技術を駆使して
行われ、空堀幅は12~13m平均。塁壁は真直ぐではなくクランク状に屈曲させる横矢掛かりを
8か所施しました。また城門には櫓門である二階門を構えました。
まず、こちらは、西外濠と、正面に井楼矢倉。右奥に見えるのが二層櫓(物見櫓)です。
古河城址(茨城県) [関東]
前回の記事の最後に、次回は二本松城址と書きましたが、予定を変更して、茨城県古河市に
ある、古河城址を採りあげることにしました。
古河城は、遺構がほとんどないこともあって、今では必ずしも有名ではありませんが、その歴史は
古く、築城は室町時代中頃、鎌倉を追われた関東公方足利成氏がこの地に居を構え、古河公方と
称したことに始まるそうです。
その後、戦国時代には、関東の中心の1つとなり、永禄年間には上杉謙信と北条氏康が当城を
奪い合いました。天正年間には北条氏照のもとで整備・拡充が進められ、豊臣秀吉が北条氏を
滅ぼした後は、徳川家康配下の小笠原秀政が入部。寛永10年(1633年)には幕府老中土井勝利
が入城し、本丸に御三階櫓を構築したほか、諏訪曲輪を造営します。その後も城主はたびたび
かわりましたが、明治維新まで廃城になりことはありませんでした。
そんな、明治まで残った古河城址ですが、その割には、当時の面影をほとんど残していません。
その最大の理由が、本丸や二の丸、三の丸といった、城の中核部分が渡良瀬川の河川敷にあった
ため、明治以降の洪水対策によって、城址の大半が消滅してしまったそうです。
そんな、ほとんど面影を残していない古河城址ですが、どんぞご覧ください。
まずこちらが、追手門(大手門)跡。枡形の門があったそうですが、今は住宅地になっていて
全く、当時の様子を窺うことはできません。
ある、古河城址を採りあげることにしました。
古河城は、遺構がほとんどないこともあって、今では必ずしも有名ではありませんが、その歴史は
古く、築城は室町時代中頃、鎌倉を追われた関東公方足利成氏がこの地に居を構え、古河公方と
称したことに始まるそうです。
その後、戦国時代には、関東の中心の1つとなり、永禄年間には上杉謙信と北条氏康が当城を
奪い合いました。天正年間には北条氏照のもとで整備・拡充が進められ、豊臣秀吉が北条氏を
滅ぼした後は、徳川家康配下の小笠原秀政が入部。寛永10年(1633年)には幕府老中土井勝利
が入城し、本丸に御三階櫓を構築したほか、諏訪曲輪を造営します。その後も城主はたびたび
かわりましたが、明治維新まで廃城になりことはありませんでした。
そんな、明治まで残った古河城址ですが、その割には、当時の面影をほとんど残していません。
その最大の理由が、本丸や二の丸、三の丸といった、城の中核部分が渡良瀬川の河川敷にあった
ため、明治以降の洪水対策によって、城址の大半が消滅してしまったそうです。
そんな、ほとんど面影を残していない古河城址ですが、どんぞご覧ください。
まずこちらが、追手門(大手門)跡。枡形の門があったそうですが、今は住宅地になっていて
全く、当時の様子を窺うことはできません。
芝 増上寺へ [関東]
かなり間があいてしまいました。お久しぶりです。
30日の土曜日、暑い中、港区の芝公園にある徳川家の菩提寺、増上寺に行ってきました。
この増上寺、かつては広大な敷地を有していましたが、明治維新後に、その多くが芝公園となり、
また第二次大戦での空襲により大部分が焼失。その後、東京タワーや東京プリンスホテル、プリ
ンスパークタワー東京などの建設時に土地を提供したため、現在の規模になったそうです。
まずは、浜松町駅や大門駅から増上寺に向かう途中に見えるのが、総門(大門)です。
現在の門は昭和12年製のコンクリート造りです。増上寺の管理する物件ではなく、(なぜか)
東京都の管理物なんだとか。
かつてはここに、増上寺の表門として、江戸城の大手門だった高麗門があったそうです。
30日の土曜日、暑い中、港区の芝公園にある徳川家の菩提寺、増上寺に行ってきました。
この増上寺、かつては広大な敷地を有していましたが、明治維新後に、その多くが芝公園となり、
また第二次大戦での空襲により大部分が焼失。その後、東京タワーや東京プリンスホテル、プリ
ンスパークタワー東京などの建設時に土地を提供したため、現在の規模になったそうです。
まずは、浜松町駅や大門駅から増上寺に向かう途中に見えるのが、総門(大門)です。
現在の門は昭和12年製のコンクリート造りです。増上寺の管理する物件ではなく、(なぜか)
東京都の管理物なんだとか。
かつてはここに、増上寺の表門として、江戸城の大手門だった高麗門があったそうです。
(日本100名城)川越城 本丸御殿 [関東]
GW期間中、ほとんど出かけませんでしたが、唯一、観光地らしき場所に行ったのが川越。
初夏の陽気、いや夏のような暑さだった3日、久しぶりに川越城の本丸御殿に行ってきました。
こちらは、東日本で唯一の本丸御殿遺構で、埼玉県の有形文化財に指定されているそうです。
初夏の陽気、いや夏のような暑さだった3日、久しぶりに川越城の本丸御殿に行ってきました。
こちらは、東日本で唯一の本丸御殿遺構で、埼玉県の有形文化財に指定されているそうです。