能登の海景色 [北陸]
訪問してから2か月以上になりますが、3月に訪れた能登半島で見た海や海岸の景色です。
まずは、金沢市内から石川県の日本海側の海岸に沿いを通る、6年前までは有料道路だった「のと
里山海道」を走りました。こちらは、途中、高松SA付近の砂浜です。
続いては、「のと里山海道」の更に海沿いにある、「千里浜なぎさドライブウェイ」付近の海岸です。
ここは日本で唯一、一般の自動車やバスで海岸線の波打ち際を走行できる道路として有名ですね。
私はここを実に25年ぶりに走りました。
これは、この日の宿、和倉温泉の某旅館の部屋から見た七尾湾の海です。
翌朝、同じ場所で撮った七尾湾です。朝日が差し込む海面がとても美しかったです。
そして輪島へ移動。日本初の世界農業遺産である「能登の里山里海」の代表的な棚田、白米千枚田です。
海沿いの斜面に1004枚もの棚田があるんだとか。まさに絶景です。田植えが終わったころに、再び行って
みたいですね。
こちらは、荒波により岩の真ん中に2mの穴が開いた奇岩、「窓岩」です。ここを含め、朝市で有名な
輪島市街から海岸線の沿って走る国道249号線、別名「奥能登絶景街道」からの眺めは、本当に素晴らしいものが
ありました。
これは、道の駅赤神で撮った日本海です。真っ青な海、良いですね。
そして、険しい断崖と荒波が作り出した奇岩が続く「能登金剛」の景勝地の1つ、「ヤセの断崖」付近の
絶壁です。高いところが苦手な私には、これでも恐怖感と戦いながらの撮影です。
ヤセの断崖の近くにある、「義経の舟隠し」です。源義経が奥州に逃亡する際、48隻もの船を
隠したと伝えられている入り江です。
最後に、能登金剛を代表する存在の「巌門」にやってきました。これは「巌門」付近の岩場です。
そして、「巌門」。海に突き出た岩盤にある、浸食によってあいた洞門です。
能登の海は、夏には海水浴を楽しめる砂浜あり、断崖絶壁や奇岩あり、と行く場所行く場所で豊かな
表情を見せてくれますね。
うまく表現できませんが、数々の絶景、とても堪能させてもらいました。
まずは、金沢市内から石川県の日本海側の海岸に沿いを通る、6年前までは有料道路だった「のと
里山海道」を走りました。こちらは、途中、高松SA付近の砂浜です。
続いては、「のと里山海道」の更に海沿いにある、「千里浜なぎさドライブウェイ」付近の海岸です。
ここは日本で唯一、一般の自動車やバスで海岸線の波打ち際を走行できる道路として有名ですね。
私はここを実に25年ぶりに走りました。
これは、この日の宿、和倉温泉の某旅館の部屋から見た七尾湾の海です。
翌朝、同じ場所で撮った七尾湾です。朝日が差し込む海面がとても美しかったです。
そして輪島へ移動。日本初の世界農業遺産である「能登の里山里海」の代表的な棚田、白米千枚田です。
海沿いの斜面に1004枚もの棚田があるんだとか。まさに絶景です。田植えが終わったころに、再び行って
みたいですね。
こちらは、荒波により岩の真ん中に2mの穴が開いた奇岩、「窓岩」です。ここを含め、朝市で有名な
輪島市街から海岸線の沿って走る国道249号線、別名「奥能登絶景街道」からの眺めは、本当に素晴らしいものが
ありました。
これは、道の駅赤神で撮った日本海です。真っ青な海、良いですね。
そして、険しい断崖と荒波が作り出した奇岩が続く「能登金剛」の景勝地の1つ、「ヤセの断崖」付近の
絶壁です。高いところが苦手な私には、これでも恐怖感と戦いながらの撮影です。
ヤセの断崖の近くにある、「義経の舟隠し」です。源義経が奥州に逃亡する際、48隻もの船を
隠したと伝えられている入り江です。
最後に、能登金剛を代表する存在の「巌門」にやってきました。これは「巌門」付近の岩場です。
そして、「巌門」。海に突き出た岩盤にある、浸食によってあいた洞門です。
能登の海は、夏には海水浴を楽しめる砂浜あり、断崖絶壁や奇岩あり、と行く場所行く場所で豊かな
表情を見せてくれますね。
うまく表現できませんが、数々の絶景、とても堪能させてもらいました。
能登の古刹 [北陸]
三月上旬、金沢市内を巡ったあとは、レンタカーを借りて能登半島を旅行しました。
その中で、1つ、記憶に焼き付いたのが2つの古刹、羽咋市にある妙成寺と輪島市門前町にある
総持寺です。
まずは、その妙成寺です。妙成寺は加賀前田家のゆかりの寺として有名です。
今から700年ほど前に、日蓮聖人の孫弟子・日像上人によって建立された歴史あるお寺ですが、その後、
江戸時代になり、前田利家の寵愛を受け三代藩主前田利常を生んだ寿福院によって、多くの建造物が
建立され、数々の仏像や経巻などが寄進されるに至ったそうです。その当時の建物の多くが現存していて
境内には10棟の国指定重要文化財があるんです、
ではその建物のいくつかをご覧ください。こちらは、寛永2年(1625年)建立の二王門です。
その中で、1つ、記憶に焼き付いたのが2つの古刹、羽咋市にある妙成寺と輪島市門前町にある
総持寺です。
まずは、その妙成寺です。妙成寺は加賀前田家のゆかりの寺として有名です。
今から700年ほど前に、日蓮聖人の孫弟子・日像上人によって建立された歴史あるお寺ですが、その後、
江戸時代になり、前田利家の寵愛を受け三代藩主前田利常を生んだ寿福院によって、多くの建造物が
建立され、数々の仏像や経巻などが寄進されるに至ったそうです。その当時の建物の多くが現存していて
境内には10棟の国指定重要文化財があるんです、
ではその建物のいくつかをご覧ください。こちらは、寛永2年(1625年)建立の二王門です。
タグ:能登
金沢の街を散策 [北陸]
3月初旬、3年前から金沢市内に住む長男と金沢駅で合流して、1泊2日で金沢の街と能登半島を
旅行してきました。
旅の初めは、やはり兼六園です。言わずと知れた日本三名園の1つで、加賀百万石前田家の大名庭園
です。3月初旬なら雪の徽軫灯籠を見ることができるかな、と期待もしていたのですが、今年の冬は
雪が少なく、特にこの日の天気は晴れで、最高気温は12.5度と、冬というよりは春、という陽気でした。
旅行してきました。
旅の初めは、やはり兼六園です。言わずと知れた日本三名園の1つで、加賀百万石前田家の大名庭園
です。3月初旬なら雪の徽軫灯籠を見ることができるかな、と期待もしていたのですが、今年の冬は
雪が少なく、特にこの日の天気は晴れで、最高気温は12.5度と、冬というよりは春、という陽気でした。
タグ:金沢
特別名勝 兼六園へ [北陸]
北陸ツアーの最後は、兼六園です。
兼六園は、江戸時代を代表する池泉回遊式大名庭園で、岡山の後楽園、水戸の偕楽園とともに、
日本3名園の一つと言われています。もともと金沢城の外郭として城に属した庭で、5代藩主前田
綱紀によって、蓮池門の辺り、今の瓢池周辺に造られました。これが兼六園の前身の蓮池庭です。
宝暦9年(1759年)の金沢大火で、蓮池庭も一部焼失し、荒廃しましたが、安永3年(1774年)11代の治脩が翠滝や夕顔亭を、安永5年(1776年)には内橋亭を作り、庭園は一段と眺めが良くなります。
文政5年(1822年)には12代の斉広が千歳台に壮大な竹沢御殿を建て、庭園を回遊式にしました。
この時、斉広から請われた幕府の老中松平定信が「兼六園」と命名したそうです。斉広の死後、
竹沢御殿は取り壊されますが、13代の斉泰が霞が池や永螺山を作り、今見る兼六園の形になりま
した。
廃藩後は一般開放され、大正11年に名勝に指定。昭和60年に特別名勝の指定を受け、今に至って
います。
兼六園は、江戸時代を代表する池泉回遊式大名庭園で、岡山の後楽園、水戸の偕楽園とともに、
日本3名園の一つと言われています。もともと金沢城の外郭として城に属した庭で、5代藩主前田
綱紀によって、蓮池門の辺り、今の瓢池周辺に造られました。これが兼六園の前身の蓮池庭です。
宝暦9年(1759年)の金沢大火で、蓮池庭も一部焼失し、荒廃しましたが、安永3年(1774年)11代の治脩が翠滝や夕顔亭を、安永5年(1776年)には内橋亭を作り、庭園は一段と眺めが良くなります。
文政5年(1822年)には12代の斉広が千歳台に壮大な竹沢御殿を建て、庭園を回遊式にしました。
この時、斉広から請われた幕府の老中松平定信が「兼六園」と命名したそうです。斉広の死後、
竹沢御殿は取り壊されますが、13代の斉泰が霞が池や永螺山を作り、今見る兼六園の形になりま
した。
廃藩後は一般開放され、大正11年に名勝に指定。昭和60年に特別名勝の指定を受け、今に至って
います。
日本100名城 金沢城(建築物編) [北陸]
加賀100万石の城、金沢城は、天正8年(1580年)、加賀一向一揆の拠点に佐久間信盛が築いた
ところから、歴史が始まります。天正11年(1583年)には前田利家が金沢に入り、金沢城を近世
城郭へと改修します。天守閣は慶長7年(1602年)、落雷により焼失し、その後再築されません
でした。宝暦9年(1759年)には金沢大火により金沢城も全焼。更には、明治14年(1881年)に
兵営からの失火で二の丸などが全焼し、塁上に建ち並んでいた雄大な櫓群は石川門と三十間長屋
のほかはすべて灰となってしまいました。
ただ、城内に昭和24年に開学した金沢大学が平成7年に移転して以降は、金沢城公園として整備
が進められていて、菱櫓、五十間長屋、橋爪門、河北門などが復元されるなど、かつての姿を
取り戻しつつあります。
まず、これが、以前は金沢城の正門としても利用された「石川門」。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚
な枡形門の構造です。左が石川櫓、真ん中が一の門(高麗門)、右が二の門です。
ところから、歴史が始まります。天正11年(1583年)には前田利家が金沢に入り、金沢城を近世
城郭へと改修します。天守閣は慶長7年(1602年)、落雷により焼失し、その後再築されません
でした。宝暦9年(1759年)には金沢大火により金沢城も全焼。更には、明治14年(1881年)に
兵営からの失火で二の丸などが全焼し、塁上に建ち並んでいた雄大な櫓群は石川門と三十間長屋
のほかはすべて灰となってしまいました。
ただ、城内に昭和24年に開学した金沢大学が平成7年に移転して以降は、金沢城公園として整備
が進められていて、菱櫓、五十間長屋、橋爪門、河北門などが復元されるなど、かつての姿を
取り戻しつつあります。
まず、これが、以前は金沢城の正門としても利用された「石川門」。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚
な枡形門の構造です。左が石川櫓、真ん中が一の門(高麗門)、右が二の門です。
日本100名城 金沢城(石垣編) [北陸]
もう少し早めに記事にするつもりが、結局、大晦日になってしまいました。中途半端な感じで
年を越しますが、来年もよろしくお願いします。
さて、先月、日本100名城の1つ、加賀100万石の金沢城にも行ってきました。
金沢城は、前田利家の入城後に本格的な石垣づくりが始まり、場所に応じて、特殊な技術やデザ
インが工夫されたこと、何度も修築が繰り返されたことなどから、多様な種類の石垣を見ること
ができ、「石垣の博物館」とも言われているそうです。
そこで、今回はまず「石垣編」として、金沢城で見られる石垣の写真を紹介したいと思います。
まずは、有名な三の丸石川門の脇の石垣です。
ちなみに、金沢城と言えば石川門を連想しますが、その石川門、正門ではなく、あくまでも搦手
(裏口)門なんですよね。
年を越しますが、来年もよろしくお願いします。
さて、先月、日本100名城の1つ、加賀100万石の金沢城にも行ってきました。
金沢城は、前田利家の入城後に本格的な石垣づくりが始まり、場所に応じて、特殊な技術やデザ
インが工夫されたこと、何度も修築が繰り返されたことなどから、多様な種類の石垣を見ること
ができ、「石垣の博物館」とも言われているそうです。
そこで、今回はまず「石垣編」として、金沢城で見られる石垣の写真を紹介したいと思います。
まずは、有名な三の丸石川門の脇の石垣です。
ちなみに、金沢城と言えば石川門を連想しますが、その石川門、正門ではなく、あくまでも搦手
(裏口)門なんですよね。
小松城(石川県)へ [北陸]
先月、丸岡城に行った帰りに、小松城にも寄ってきました。
小松城は、天正4年(1576年)、加賀一向一揆方の若林長門守によって築かれたといわれ、その後
柴田勝家に攻められ、その柴田家から前田利家が受け取ったそうです。秀吉の時代には、村上氏、
丹羽氏が居城し、慶長5年(1600年)からは前田氏の有するところとなります。
その後、元和元年(1615年)に一国一城令で廃城となるものの、寛永17年(1640年)加賀藩主
前田利常の隠居城という名目で再築されます。沼地を利用した平城で、川の水を引き入れた堀の
中に、8つの島(郭)が設けられ、城の面積は金沢城の倍近い56万㎡という大規模なものでした。
その大規模な小松城ですが、現在、城跡には、本丸の一部に天守台と内堀の石垣が残るのみです。
こちらが、その天守台の石垣です。以前は石段を登って、天守台の上に行くことが出来たのですが
今では残念ながら立ち入り禁止になってます。
小松城は、天正4年(1576年)、加賀一向一揆方の若林長門守によって築かれたといわれ、その後
柴田勝家に攻められ、その柴田家から前田利家が受け取ったそうです。秀吉の時代には、村上氏、
丹羽氏が居城し、慶長5年(1600年)からは前田氏の有するところとなります。
その後、元和元年(1615年)に一国一城令で廃城となるものの、寛永17年(1640年)加賀藩主
前田利常の隠居城という名目で再築されます。沼地を利用した平城で、川の水を引き入れた堀の
中に、8つの島(郭)が設けられ、城の面積は金沢城の倍近い56万㎡という大規模なものでした。
その大規模な小松城ですが、現在、城跡には、本丸の一部に天守台と内堀の石垣が残るのみです。
こちらが、その天守台の石垣です。以前は石段を登って、天守台の上に行くことが出来たのですが
今では残念ながら立ち入り禁止になってます。
日本100名城 丸岡城(福井県)へ [北陸]
先月、福井県坂井市にある、丸岡城に行ってきました。
丸岡城は、天守が現存する城址の1つで、日本で最古の現存天守閣と言われています。
築城は天正4年(1576年)。柴田勝家の甥、柴田勝豊によって築かれました。
勝豊以降は、安井家清、青山氏、今村盛次、本多氏4代、有馬氏8代を経て明治維新を迎え
ました。
こちらがその、現存する二重三階の天守閣です。
丸岡城は、天守が現存する城址の1つで、日本で最古の現存天守閣と言われています。
築城は天正4年(1576年)。柴田勝家の甥、柴田勝豊によって築かれました。
勝豊以降は、安井家清、青山氏、今村盛次、本多氏4代、有馬氏8代を経て明治維新を迎え
ました。
こちらがその、現存する二重三階の天守閣です。
【日本100名城】七尾城へ [北陸]
前回と前々回の記事で、富山への出張の際に、「トワイライトエクスプレス」や「北越」など
撮り鉄してきたことはお伝えしましたが、その際に、更に足を伸ばして、石川県七尾市にある、
日本100名城の1つ、七尾城にも行ってきました。真の鉄道ファンであれば、そんなものには
目もくれず、3週間後になくなる北陸の特急を、立山連峰などとからめて撮り続けるんだと思い
ますが、中途半端な「鉄」の私は、簡単には行けない地に行くと、どうしても城や史跡をも
訪ねたくなってしまうんですよね。大して、歴史に通じてるわけでもないのに。
いずれにせよ、七尾城に行ってきたんです。七尾城は、能登国守護畠山氏の居城です。能登畠山氏
は、足利一門の有力家臣であった畠山基国の次男満慶が応永15年(1408年)に畠山氏が治めていた
四分国のうち能登一国を割いたことをはじまりとするそうです。その後、七尾城が落城する天正
5年(1577年)まで、169年間にわたり、能登畠山氏がこの地を治めました。当の七尾城は、戦国
時代初期の永正~大永年間(1504~1528年)ごろの築城で、標高300mの山に築かれた、かなり
大きな規模の城です。加えて、多数の屋敷地が集結するなど、軍事。政治の拠点だけでなく、生活
の拠点でもあった「都市」機能を併せもつ、極めて貴重な山城、ということです。
畠山氏のあと、前田利家、そしてその子の前田利政が入城するも、既に山城の時代ではなく、すぐ
に拠点を移したため、天正17年(1589年)には廃城になってしまいます。
写真は、本丸北の駐車場です。車では進入できないほどの積雪のため、果たして、城に登れるのか
不安になりました。
撮り鉄してきたことはお伝えしましたが、その際に、更に足を伸ばして、石川県七尾市にある、
日本100名城の1つ、七尾城にも行ってきました。真の鉄道ファンであれば、そんなものには
目もくれず、3週間後になくなる北陸の特急を、立山連峰などとからめて撮り続けるんだと思い
ますが、中途半端な「鉄」の私は、簡単には行けない地に行くと、どうしても城や史跡をも
訪ねたくなってしまうんですよね。大して、歴史に通じてるわけでもないのに。
いずれにせよ、七尾城に行ってきたんです。七尾城は、能登国守護畠山氏の居城です。能登畠山氏
は、足利一門の有力家臣であった畠山基国の次男満慶が応永15年(1408年)に畠山氏が治めていた
四分国のうち能登一国を割いたことをはじまりとするそうです。その後、七尾城が落城する天正
5年(1577年)まで、169年間にわたり、能登畠山氏がこの地を治めました。当の七尾城は、戦国
時代初期の永正~大永年間(1504~1528年)ごろの築城で、標高300mの山に築かれた、かなり
大きな規模の城です。加えて、多数の屋敷地が集結するなど、軍事。政治の拠点だけでなく、生活
の拠点でもあった「都市」機能を併せもつ、極めて貴重な山城、ということです。
畠山氏のあと、前田利家、そしてその子の前田利政が入城するも、既に山城の時代ではなく、すぐ
に拠点を移したため、天正17年(1589年)には廃城になってしまいます。
写真は、本丸北の駐車場です。車では進入できないほどの積雪のため、果たして、城に登れるのか
不安になりました。
金沢~富山 (金沢城と富山城) [北陸]
26日、今度は、金沢⇒高岡⇒富山、と日帰りで出張してきました。
まずは、仕事の後のちょっとした時間を利用して、金沢城を見学。
前回、といっても去年ですが、この時はほとんど時間がなく、三の丸と
石川門くらいしか見てないけど、今回は多少余裕があったので、二の丸
そして本丸まで行くことができた。
下の写真は、平成13年に復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。
白塗の塀が加賀百万石に相応しい、美しさを兼ね備えた立派な威容、
というところでしょうか。
こちらは重要文化財の三十間長屋。
そして、鶴の丸広間の庭園からの眺め。
その金沢城、世界遺産登録を目指し、あるいは、新幹線の延伸を睨んで、
河北門の復元事業が進んでいました。どこの城跡へ行っても、復元事業が
さかんですが、果たして、その効果はいかに。
この日の昼食は、兼六園の近くにあった、茶寮 曲水宴という店で食べた、
金沢名物 じぶ煮丼。鴨肉入りの、'和風’中華丼、といったところでしょうか。
それでも何となく、古都らしい感じがしましたけど。
(曲水宴)
(じぶ煮丼)
まずは、仕事の後のちょっとした時間を利用して、金沢城を見学。
前回、といっても去年ですが、この時はほとんど時間がなく、三の丸と
石川門くらいしか見てないけど、今回は多少余裕があったので、二の丸
そして本丸まで行くことができた。
下の写真は、平成13年に復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。
白塗の塀が加賀百万石に相応しい、美しさを兼ね備えた立派な威容、
というところでしょうか。
こちらは重要文化財の三十間長屋。
そして、鶴の丸広間の庭園からの眺め。
その金沢城、世界遺産登録を目指し、あるいは、新幹線の延伸を睨んで、
河北門の復元事業が進んでいました。どこの城跡へ行っても、復元事業が
さかんですが、果たして、その効果はいかに。
この日の昼食は、兼六園の近くにあった、茶寮 曲水宴という店で食べた、
金沢名物 じぶ煮丼。鴨肉入りの、'和風’中華丼、といったところでしょうか。
それでも何となく、古都らしい感じがしましたけど。
(曲水宴)
(じぶ煮丼)