【日本100名城】七尾城へ [北陸]
前回と前々回の記事で、富山への出張の際に、「トワイライトエクスプレス」や「北越」など
撮り鉄してきたことはお伝えしましたが、その際に、更に足を伸ばして、石川県七尾市にある、
日本100名城の1つ、七尾城にも行ってきました。真の鉄道ファンであれば、そんなものには
目もくれず、3週間後になくなる北陸の特急を、立山連峰などとからめて撮り続けるんだと思い
ますが、中途半端な「鉄」の私は、簡単には行けない地に行くと、どうしても城や史跡をも
訪ねたくなってしまうんですよね。大して、歴史に通じてるわけでもないのに。
いずれにせよ、七尾城に行ってきたんです。七尾城は、能登国守護畠山氏の居城です。能登畠山氏
は、足利一門の有力家臣であった畠山基国の次男満慶が応永15年(1408年)に畠山氏が治めていた
四分国のうち能登一国を割いたことをはじまりとするそうです。その後、七尾城が落城する天正
5年(1577年)まで、169年間にわたり、能登畠山氏がこの地を治めました。当の七尾城は、戦国
時代初期の永正~大永年間(1504~1528年)ごろの築城で、標高300mの山に築かれた、かなり
大きな規模の城です。加えて、多数の屋敷地が集結するなど、軍事。政治の拠点だけでなく、生活
の拠点でもあった「都市」機能を併せもつ、極めて貴重な山城、ということです。
畠山氏のあと、前田利家、そしてその子の前田利政が入城するも、既に山城の時代ではなく、すぐ
に拠点を移したため、天正17年(1589年)には廃城になってしまいます。
写真は、本丸北の駐車場です。車では進入できないほどの積雪のため、果たして、城に登れるのか
不安になりました。
駐車場付近から、城下方面を望みます。七尾湾(七尾南湾)が見えます。1577年に初登城した
上杉謙信は、その眺めの良さを絶賛したそうです。
調度丸跡。弓矢などの武具をととのえた場所です。
調度丸から桜馬場に至る石垣。織豊期の野面積みの石垣です。
桜馬場北側の石垣。この城の特徴の1つが、高い石垣はないものの、こうして低い野面積みの
石垣を幾重にも組んでいるところです。
桜馬場。東西45m、南北25mもあり、軍馬の訓練を行った馬場と言われてます。
桜馬場(右)と遊佐屋敷跡(左)の間の石垣。
本丸の北側の石垣。
本丸からの眺望。
本丸跡に建つ城址碑。右手が天守台後に建つ城山神社。
本丸跡。
温井屋敷跡の南側にある、九尺石。城の鎮護のかなめ石だそうです。
畠山氏を補佐する八臣の一人、温井氏の屋敷跡。
温井氏屋敷跡と二の丸の間にある石垣。
二の丸跡。
三の丸跡。現地にあった説明では、南北110m、東西25mと、曲輪の中で最大規模を誇り、
二の丸とは深い堀切で仕切られています。本丸を中心とする主郭とは別の曲輪群を構成します。
安寧寺跡。畠山氏の墓碑や七尾城の攻防戦で滅んだ武士たちの慰霊碑などがあります。
温井屋敷の東側。写真では分かりにくいですけど、小さな石垣が幾重にも設けられています。
調度丸へと向かう石段と石垣。
どうですか、七尾城。苔むした野面積の石垣。なかなかの見ごたえです。
JR七尾駅から、本丸北駐車場までが約7km。バスで行く場合は七尾駅から、七尾城の麓にある
資料館に近い古屋敷町バス停まで15分。資料館から本丸跡まで徒歩で約60分。交通の便は良いとは
言えませんが、歴史ファンならずとも、わざわざ足を運ぶ価値は十分あると思います。
ただ、この日は平日でしたし、まだ雪の残る季節でもあったからだと思いますが、滞在した約1時
間の間に、誰にもお会いしませんでした。
ついでに、七尾城とは別のお城の写真を2枚。富山県氷見市にある阿尾城跡です。確かなことは分かっていないようですが、築城は天正・文禄年間(1573~1596年)で、菊池氏の居城でした。
菊池氏は当初は佐々成政に従い、やがて前田利家に寝返ります。その後阿尾城は1597年頃には
廃城となり菊池氏は加賀藩士となったそうです、
阿尾城址の本丸跡です。遺構はありませんが、富山湾を望む景色は最高です。
いよいよ北陸新幹線の開業まで1週間ですね。開業後は、こうした北陸の城跡、史跡も今まで
以上に脚光を浴びることになるのでしょうか。金沢城址や高岡城址、富山城址を含め、注目度
が高まると良いですね。
撮り鉄してきたことはお伝えしましたが、その際に、更に足を伸ばして、石川県七尾市にある、
日本100名城の1つ、七尾城にも行ってきました。真の鉄道ファンであれば、そんなものには
目もくれず、3週間後になくなる北陸の特急を、立山連峰などとからめて撮り続けるんだと思い
ますが、中途半端な「鉄」の私は、簡単には行けない地に行くと、どうしても城や史跡をも
訪ねたくなってしまうんですよね。大して、歴史に通じてるわけでもないのに。
いずれにせよ、七尾城に行ってきたんです。七尾城は、能登国守護畠山氏の居城です。能登畠山氏
は、足利一門の有力家臣であった畠山基国の次男満慶が応永15年(1408年)に畠山氏が治めていた
四分国のうち能登一国を割いたことをはじまりとするそうです。その後、七尾城が落城する天正
5年(1577年)まで、169年間にわたり、能登畠山氏がこの地を治めました。当の七尾城は、戦国
時代初期の永正~大永年間(1504~1528年)ごろの築城で、標高300mの山に築かれた、かなり
大きな規模の城です。加えて、多数の屋敷地が集結するなど、軍事。政治の拠点だけでなく、生活
の拠点でもあった「都市」機能を併せもつ、極めて貴重な山城、ということです。
畠山氏のあと、前田利家、そしてその子の前田利政が入城するも、既に山城の時代ではなく、すぐ
に拠点を移したため、天正17年(1589年)には廃城になってしまいます。
写真は、本丸北の駐車場です。車では進入できないほどの積雪のため、果たして、城に登れるのか
不安になりました。
駐車場付近から、城下方面を望みます。七尾湾(七尾南湾)が見えます。1577年に初登城した
上杉謙信は、その眺めの良さを絶賛したそうです。
調度丸跡。弓矢などの武具をととのえた場所です。
調度丸から桜馬場に至る石垣。織豊期の野面積みの石垣です。
桜馬場北側の石垣。この城の特徴の1つが、高い石垣はないものの、こうして低い野面積みの
石垣を幾重にも組んでいるところです。
桜馬場。東西45m、南北25mもあり、軍馬の訓練を行った馬場と言われてます。
桜馬場(右)と遊佐屋敷跡(左)の間の石垣。
本丸の北側の石垣。
本丸からの眺望。
本丸跡に建つ城址碑。右手が天守台後に建つ城山神社。
本丸跡。
温井屋敷跡の南側にある、九尺石。城の鎮護のかなめ石だそうです。
畠山氏を補佐する八臣の一人、温井氏の屋敷跡。
温井氏屋敷跡と二の丸の間にある石垣。
二の丸跡。
三の丸跡。現地にあった説明では、南北110m、東西25mと、曲輪の中で最大規模を誇り、
二の丸とは深い堀切で仕切られています。本丸を中心とする主郭とは別の曲輪群を構成します。
安寧寺跡。畠山氏の墓碑や七尾城の攻防戦で滅んだ武士たちの慰霊碑などがあります。
温井屋敷の東側。写真では分かりにくいですけど、小さな石垣が幾重にも設けられています。
調度丸へと向かう石段と石垣。
どうですか、七尾城。苔むした野面積の石垣。なかなかの見ごたえです。
JR七尾駅から、本丸北駐車場までが約7km。バスで行く場合は七尾駅から、七尾城の麓にある
資料館に近い古屋敷町バス停まで15分。資料館から本丸跡まで徒歩で約60分。交通の便は良いとは
言えませんが、歴史ファンならずとも、わざわざ足を運ぶ価値は十分あると思います。
ただ、この日は平日でしたし、まだ雪の残る季節でもあったからだと思いますが、滞在した約1時
間の間に、誰にもお会いしませんでした。
ついでに、七尾城とは別のお城の写真を2枚。富山県氷見市にある阿尾城跡です。確かなことは分かっていないようですが、築城は天正・文禄年間(1573~1596年)で、菊池氏の居城でした。
菊池氏は当初は佐々成政に従い、やがて前田利家に寝返ります。その後阿尾城は1597年頃には
廃城となり菊池氏は加賀藩士となったそうです、
阿尾城址の本丸跡です。遺構はありませんが、富山湾を望む景色は最高です。
いよいよ北陸新幹線の開業まで1週間ですね。開業後は、こうした北陸の城跡、史跡も今まで
以上に脚光を浴びることになるのでしょうか。金沢城址や高岡城址、富山城址を含め、注目度
が高まると良いですね。
雪の中の登城お疲れ様でした。凛とした冷たい空気が伝わってきます。行きたいなあ。
by ノリパ (2015-03-14 11:48)