雪の猪苗代城址へ [東北]
既に一か月以上前ですが、会津若松城址に向かう途中、猪苗代城址にも行ってみました。
猪苗代城、別名亀ヶ城は、猪苗代経連が建久2年(1191年)に築いたとされ、以降、猪苗代氏が代々居城と
してましたが、豊臣秀吉による奥州仕置きによって伊達政宗が会津を離れた際に、当時の城主猪苗代盛国も
猪苗代を離れ、猪苗代氏による支配は終わりました。その後は、会津領の重要拠点となり、江戸時代初期
に出された一国一城令にも例外として破却されず、幕末まで城代が置かれていましたが、戊辰戦争の際に、
焼失してしまったそうです。
今では桜や紅葉の名所となっている猪苗代城址ですが、この時期(2月)は、雪の多い猪苗代エリアにあって、
訪問客も少ないことから、30~40センチほど雪が積もった状態で、石垣も雪に埋もれ、空堀はどこにあるのかも
分からず、城址全域を歩くのも困難な状況でした。こんな季節に行ってはダメですね。
こちらは、大手口多聞櫓台石垣です。
大手口の石垣です。
帯郭法面の石垣です。カラーコーンがほとんど埋まっていることからも雪深さが分かると思います。
北帯郭です。誰の足跡もなく、深い雪の中を苦労して、正面左側に見えるトイレに向かいましたが、残念
ながら、冬季閉鎖期間中でした。
二ノ郭の入口にある櫓門の石垣です。
本丸跡です。
二ノ郭跡です。
二ノ郭の井戸門跡です。
二ノ郭の四脚門跡です。
そして、本丸の隅櫓跡の石垣です。
このほかにも、石垣や空堀、土塁の遺構があるのですが、あまりの雪に断念。
この時は雪は止んでましたが、城址を後にして歩き出した頃から吹雪になり、寒い中を猪苗代駅へと
向かいました。次は、もっと良い季節に来てみたいです。
猪苗代城、別名亀ヶ城は、猪苗代経連が建久2年(1191年)に築いたとされ、以降、猪苗代氏が代々居城と
してましたが、豊臣秀吉による奥州仕置きによって伊達政宗が会津を離れた際に、当時の城主猪苗代盛国も
猪苗代を離れ、猪苗代氏による支配は終わりました。その後は、会津領の重要拠点となり、江戸時代初期
に出された一国一城令にも例外として破却されず、幕末まで城代が置かれていましたが、戊辰戦争の際に、
焼失してしまったそうです。
今では桜や紅葉の名所となっている猪苗代城址ですが、この時期(2月)は、雪の多い猪苗代エリアにあって、
訪問客も少ないことから、30~40センチほど雪が積もった状態で、石垣も雪に埋もれ、空堀はどこにあるのかも
分からず、城址全域を歩くのも困難な状況でした。こんな季節に行ってはダメですね。
こちらは、大手口多聞櫓台石垣です。
大手口の石垣です。
帯郭法面の石垣です。カラーコーンがほとんど埋まっていることからも雪深さが分かると思います。
北帯郭です。誰の足跡もなく、深い雪の中を苦労して、正面左側に見えるトイレに向かいましたが、残念
ながら、冬季閉鎖期間中でした。
二ノ郭の入口にある櫓門の石垣です。
本丸跡です。
二ノ郭跡です。
二ノ郭の井戸門跡です。
二ノ郭の四脚門跡です。
そして、本丸の隅櫓跡の石垣です。
このほかにも、石垣や空堀、土塁の遺構があるのですが、あまりの雪に断念。
この時は雪は止んでましたが、城址を後にして歩き出した頃から吹雪になり、寒い中を猪苗代駅へと
向かいました。次は、もっと良い季節に来てみたいです。
(日本100名城)会津若松城へ(その他編) [東北]
前回の本丸に続いて、今回は本丸以外で撮った会津若松城の遺構について記事にしてみました。
まずは、城址公園から1.5kmほど北西に行ったあたり、JR只見線の七日町駅のすぐ前にある阿弥陀寺です。
ここには、本丸内にあったという「御三階(おさんがい)」が現存しています。戊辰戦争でも焼失せず、
明治3年にこの地に移築され、長く本堂として使用されたそうです。
まずは、城址公園から1.5kmほど北西に行ったあたり、JR只見線の七日町駅のすぐ前にある阿弥陀寺です。
ここには、本丸内にあったという「御三階(おさんがい)」が現存しています。戊辰戦争でも焼失せず、
明治3年にこの地に移築され、長く本堂として使用されたそうです。
(日本100名城)会津若松城へ(本丸編) [東北]
ライトアップされた会津若松城の天守閣を見た翌日の朝、雪の降る中、あらためて会津若松城を
訪ねました。
本丸に着いたのは9時過ぎ。8時半過ぎから雪が徐々に本格的に降り始め、天守閣の近くに着くころには、
この通り、すっかり雪化粧していました。
訪ねました。
本丸に着いたのは9時過ぎ。8時半過ぎから雪が徐々に本格的に降り始め、天守閣の近くに着くころには、
この通り、すっかり雪化粧していました。