日本100名城 金沢城(建築物編) [北陸]
加賀100万石の城、金沢城は、天正8年(1580年)、加賀一向一揆の拠点に佐久間信盛が築いた
ところから、歴史が始まります。天正11年(1583年)には前田利家が金沢に入り、金沢城を近世
城郭へと改修します。天守閣は慶長7年(1602年)、落雷により焼失し、その後再築されません
でした。宝暦9年(1759年)には金沢大火により金沢城も全焼。更には、明治14年(1881年)に
兵営からの失火で二の丸などが全焼し、塁上に建ち並んでいた雄大な櫓群は石川門と三十間長屋
のほかはすべて灰となってしまいました。
ただ、城内に昭和24年に開学した金沢大学が平成7年に移転して以降は、金沢城公園として整備
が進められていて、菱櫓、五十間長屋、橋爪門、河北門などが復元されるなど、かつての姿を
取り戻しつつあります。
まず、これが、以前は金沢城の正門としても利用された「石川門」。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚
な枡形門の構造です。左が石川櫓、真ん中が一の門(高麗門)、右が二の門です。
石川門は、金沢城の搦手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれました。宝暦の大火
(1759年)の後、天明八年(1788年)に再建され、現在に至ってます。現存する貴重な遺構の
一つで、国の重要文化財に指定されています。
こちらは、石川門(右側)と、石川門につながる太鼓塀です。太鼓塀はなまこ壁のモザイク模様が
とてもきれいです。
二層二階の石川門石川櫓です。
石川門の二の門(櫓門)です。
石川櫓を三の丸側から見ます。
続いては、平成22年4月に復元された「河北門」。大手門から入り、河北坂を上がったところに
位置する「三の丸の正面」で、金沢城の実質的な正門です。宝暦の大火(1759年)で焼失後、
安永元年(1772)に再建されるも、明治15年頃には撤去されてしまいましたが、絵図や古写真、
調査結果などをもとに細部にもこだわって復元したそうです。
一の門、二の門、枡形土塀から構成される枡形門で、写真は、櫓門の二の門です。
これも河北門です。左が、高麗門の一の門、右が二の門です。
三の丸と数寄屋敷の間にある、「切手門」。重文等の指定は受けていませんが、江戸時代から
現存する門のようです。
二の丸と本丸付段の間の空堀に架かる「極楽橋」。極楽橋の名前は、江戸時代から使われて
いたそうです。
本丸の西側の付段に建つ「三十間長屋」。二層二階の多聞櫓で、安政5年(1858年)に再建され
ました。国の重要文化財です。海鼠壁が特徴です。
これも重要文化財の「鶴丸倉庫」。1848年に建てられ、武具が保管されました。
城郭内に残っている土蔵としては国内最大級の遺構とのことです。「鶴丸倉庫」と呼ばれて
いますが、実際に建っている場所は「東の丸付段」です。
平成13年に二の丸に復元された、右から菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓、橋爪門一の門です。
二の丸菱櫓。三層三階の構造です。その名の通り、建物の平面はひし形なんだそうです。
五十間長屋と橋爪門続櫓。五十間長屋は二層二階の倉庫です。
手前の橋が橋爪橋、その奥に橋爪門の一の門(高麗門)、その向こうに、橋爪門続櫓です。
橋爪門続櫓も三層三階の構造で、三の丸から橋爪橋を渡り、橋爪門を通って、 二の丸へ向かう
人々を監視するための重要な櫓でした。
橋爪門の一の門です。
橋爪門の二の門(櫓門)です。橋爪門は城内最大の門です。
これは、鶴の丸の太鼓塀です。
最後に、建築物ではありませんが、玉泉院丸の庭園です。三代藩主、前田利常により寛永11年
(1634年)に作庭され、歴代藩主に手を加えられながら廃藩時まで存在した庭園で、平成27年
に当時の姿が再現されました。
色紙短冊積みの石垣と紅葉に囲まれた庭園、その景観の美しさにとても癒される感じがます。
さすが、加賀百万石のお城、壮大であって、かつ繊細な造りだなという印象を受けました。
次回は北陸ツアーの最終回、兼六園の様子を記事にしたいと思います。
ところから、歴史が始まります。天正11年(1583年)には前田利家が金沢に入り、金沢城を近世
城郭へと改修します。天守閣は慶長7年(1602年)、落雷により焼失し、その後再築されません
でした。宝暦9年(1759年)には金沢大火により金沢城も全焼。更には、明治14年(1881年)に
兵営からの失火で二の丸などが全焼し、塁上に建ち並んでいた雄大な櫓群は石川門と三十間長屋
のほかはすべて灰となってしまいました。
ただ、城内に昭和24年に開学した金沢大学が平成7年に移転して以降は、金沢城公園として整備
が進められていて、菱櫓、五十間長屋、橋爪門、河北門などが復元されるなど、かつての姿を
取り戻しつつあります。
まず、これが、以前は金沢城の正門としても利用された「石川門」。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚
な枡形門の構造です。左が石川櫓、真ん中が一の門(高麗門)、右が二の門です。
石川門は、金沢城の搦手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれました。宝暦の大火
(1759年)の後、天明八年(1788年)に再建され、現在に至ってます。現存する貴重な遺構の
一つで、国の重要文化財に指定されています。
こちらは、石川門(右側)と、石川門につながる太鼓塀です。太鼓塀はなまこ壁のモザイク模様が
とてもきれいです。
二層二階の石川門石川櫓です。
石川門の二の門(櫓門)です。
石川櫓を三の丸側から見ます。
続いては、平成22年4月に復元された「河北門」。大手門から入り、河北坂を上がったところに
位置する「三の丸の正面」で、金沢城の実質的な正門です。宝暦の大火(1759年)で焼失後、
安永元年(1772)に再建されるも、明治15年頃には撤去されてしまいましたが、絵図や古写真、
調査結果などをもとに細部にもこだわって復元したそうです。
一の門、二の門、枡形土塀から構成される枡形門で、写真は、櫓門の二の門です。
これも河北門です。左が、高麗門の一の門、右が二の門です。
三の丸と数寄屋敷の間にある、「切手門」。重文等の指定は受けていませんが、江戸時代から
現存する門のようです。
二の丸と本丸付段の間の空堀に架かる「極楽橋」。極楽橋の名前は、江戸時代から使われて
いたそうです。
本丸の西側の付段に建つ「三十間長屋」。二層二階の多聞櫓で、安政5年(1858年)に再建され
ました。国の重要文化財です。海鼠壁が特徴です。
これも重要文化財の「鶴丸倉庫」。1848年に建てられ、武具が保管されました。
城郭内に残っている土蔵としては国内最大級の遺構とのことです。「鶴丸倉庫」と呼ばれて
いますが、実際に建っている場所は「東の丸付段」です。
平成13年に二の丸に復元された、右から菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓、橋爪門一の門です。
二の丸菱櫓。三層三階の構造です。その名の通り、建物の平面はひし形なんだそうです。
五十間長屋と橋爪門続櫓。五十間長屋は二層二階の倉庫です。
手前の橋が橋爪橋、その奥に橋爪門の一の門(高麗門)、その向こうに、橋爪門続櫓です。
橋爪門続櫓も三層三階の構造で、三の丸から橋爪橋を渡り、橋爪門を通って、 二の丸へ向かう
人々を監視するための重要な櫓でした。
橋爪門の一の門です。
橋爪門の二の門(櫓門)です。橋爪門は城内最大の門です。
これは、鶴の丸の太鼓塀です。
最後に、建築物ではありませんが、玉泉院丸の庭園です。三代藩主、前田利常により寛永11年
(1634年)に作庭され、歴代藩主に手を加えられながら廃藩時まで存在した庭園で、平成27年
に当時の姿が再現されました。
色紙短冊積みの石垣と紅葉に囲まれた庭園、その景観の美しさにとても癒される感じがます。
さすが、加賀百万石のお城、壮大であって、かつ繊細な造りだなという印象を受けました。
次回は北陸ツアーの最終回、兼六園の様子を記事にしたいと思います。
遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします
金沢の兼六園は20年くらい前に行きました
懐かしく拝見しました
by gardenwalker (2017-01-09 23:42)
金沢城いいですね。
一度訪れているのですが、写真を見ているとまた行きたくなります。
by たかぼん (2017-01-10 22:51)
遅くなりましたが今年もよろしくお願いします。
金沢城、何回か行ったことがありますが、最後に出てきた庭園はまだ見ていないところです。起伏があって興味深いところですね。一度行ってみようと思います。
by やまびこ3 (2017-01-11 08:07)