赤羽 稲付城址 [関東]
JR赤羽駅の南改札口から西口方面へと向かい、5分弱歩いたところに、静稲寺という小さなお寺が
ありますが、ここには太田道灌が築城した稲付城があった、と今に伝えられています。
寺へと向かう石段の下には城址であることを示す石碑が建っています。
稲付城は、太田道灌の築城と言われていますが、確たる証拠はなく、15世紀半ばに豊嶋氏の城が
あり、それを道灌が受け継いだ、という説もあるそうです。城下には、中山道から分岐して、川口、蕨
を通って岩槻へと向かう重要な幹線道である岩槻道があり、稲付城は、江戸城と岩槻城を中継する
拠点として築かれたそうです。太田道灌の子、資康、そしてその子の資高が居城していましたが、
後に小田原の後北条氏も使用していたそうです。
城址(寺)へと向かう石段付近は、晩秋の香りが漂います。
寺の山門です。
この辺りが、城の本郭でした。
ここ静勝寺は、1655年に、道灌の子孫太田資宗によって建立され、江戸時代を通じて太田氏は
ここを菩提寺としたそうです。その静勝寺の境内には、1695年に製作されたという木造太田道灌坐像
が安置されている道灌堂があります。これは1735年に建立されたものだそうです。
静勝寺の本堂です。
南側にある門です。
この門をでた辺りには、昭和62年に実施した発掘調査で、後北条氏の時代に築かれたとみられる
巨大な空堀の遺構が見つかったそうですが、これはその後のマンション建設の際に埋め戻されて
しまったそうです。残念ですね。
したがいまして、今となっては、城址であることを示す遺構は何もなく、冒頭の石碑と、石段を上がった
ところにある案内板でのみ、城址であったことを知ることができます。
ということで、かなりマイナーなネタになってしまいました。
明日はもう少しまともな記事になりそうなネタを探しに出かけることにします。
ありますが、ここには太田道灌が築城した稲付城があった、と今に伝えられています。
寺へと向かう石段の下には城址であることを示す石碑が建っています。
稲付城は、太田道灌の築城と言われていますが、確たる証拠はなく、15世紀半ばに豊嶋氏の城が
あり、それを道灌が受け継いだ、という説もあるそうです。城下には、中山道から分岐して、川口、蕨
を通って岩槻へと向かう重要な幹線道である岩槻道があり、稲付城は、江戸城と岩槻城を中継する
拠点として築かれたそうです。太田道灌の子、資康、そしてその子の資高が居城していましたが、
後に小田原の後北条氏も使用していたそうです。
城址(寺)へと向かう石段付近は、晩秋の香りが漂います。
寺の山門です。
この辺りが、城の本郭でした。
ここ静勝寺は、1655年に、道灌の子孫太田資宗によって建立され、江戸時代を通じて太田氏は
ここを菩提寺としたそうです。その静勝寺の境内には、1695年に製作されたという木造太田道灌坐像
が安置されている道灌堂があります。これは1735年に建立されたものだそうです。
静勝寺の本堂です。
南側にある門です。
この門をでた辺りには、昭和62年に実施した発掘調査で、後北条氏の時代に築かれたとみられる
巨大な空堀の遺構が見つかったそうですが、これはその後のマンション建設の際に埋め戻されて
しまったそうです。残念ですね。
したがいまして、今となっては、城址であることを示す遺構は何もなく、冒頭の石碑と、石段を上がった
ところにある案内板でのみ、城址であったことを知ることができます。
ということで、かなりマイナーなネタになってしまいました。
明日はもう少しまともな記事になりそうなネタを探しに出かけることにします。
赤羽駅から5分でこんなに静かな風景を堪能できるのですね。
東京は奥が深いなあ。。と感じてしまいます。
by プント (2012-12-15 21:22)
こちらもイイ色合いでぇ!続きが楽しみです。ふん!フン!ふん!鼻息
申し遅れましたがぁ・・・「鉄」以外にも、「石垣」要素もぉ・・・好みです。
by hanamura (2012-12-15 22:16)
太田氏の菩提寺ですか。いい感じですね。苔むした参道に紅葉、晩秋ですね。
by ノリパ (2012-12-16 18:47)
太田道灌の足跡は、千代田城に限らず、関東一辺にあるのですね。
それだけ、偉大な武将だったということでしょうね。
by kohtyan (2012-12-19 16:09)