諏訪 高島城へ [甲信越]
既に1か月が経過してしまいましたが、先月、諏訪にある高島城址を訪れました。
諏訪高島城は、天正18年(1590年)、当時の諏訪領主諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って
武蔵国に移った後、諏訪に転封した、豊臣秀吉の家臣日根野高吉が、文禄元年(1592年)から
慶長3年(1598年)まで7年ほどかかって築きました。
(それまでの旧高島城は、北方にある茶臼山にあったそうです。)
当時は、城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから、別名「諏訪の浮城」と
呼ばれました。
1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、関ケ原の合戦で東軍に属した諏訪頼水
が2万7千石で旧領諏訪に入封。以後、10代藩主忠礼に至る270年間、諏訪氏の居城となりました。
(葛飾北斎 景勝奇覧 信州諏訪湖)
まずこちらは、本丸の東にあった南之丸跡。寛永3年(1626年)に松平忠輝を幕府から預かって
以来、整備され、以後、高島藩が幕府から罪人を預かった場所です。周囲は湿地で、堀と柵に
囲まれ、ただ一つの橋が城に通じているだけの、孤立した郭でした。
本丸東側の石垣と水堀(内濠)。
本丸の南側から二之丸に通じる、土戸門跡。城の勝手口です。残念ながら、ゴミ置き場に
なってました。
本丸の南東の角にあった富士見櫓跡。
本丸。この付近には本丸御殿がありました。
本丸の東にあった持方月櫓跡。読み方は不明だそうです。
本丸の北東にある、角櫓。天守とともに、昭和45年(1970年)に復興されました。
こちらも、天守とともに復興された冠木門と冠木橋。
冠木門。
本丸の川渡門跡に移築されている三之丸御殿裏門。城が湖に面してた頃は、川渡門から直接
湖の船に乗ることが出来ました。
現在、その川渡門跡地には、三之丸にあった三之丸御殿の裏門が移築されています。
本丸側から見た復興天守閣。
天守閣に隣接して立っていた小天守の跡。
二之丸側から見る天守閣、石垣と塀。石垣は野面積です。
天守閣の石垣と、本丸の正面(北側)と東側の石垣は規模が大きい一方で、西側(湖側)と南側の
石積みはとても簡素なものです。
角櫓。
西側から見る天守閣。
かつては湖に面していた西側の石積み。とても簡易な造りですね。
二之丸と三之丸の間を流れる、衣之渡川。堀の役目を果たしてました。
二之丸から三之丸に渡る三之丸橋の袂にある、三之丸温泉跡。碑文によると、天明六年(1786)、
高島城天守石垣の修復大工事の年の十一月、下鶴沼(現在の弁天町)に自然湧出していた温泉を
木管で引湯してこの地に浴室と汲み湯場を設け、当初は藩主が使用し、次いで城内居住の藩士
一同に便宜を図ったのが始まりだったそうで、その後、平成八年(1996)、現在地の第一浴場は
閉鎖取り壊され二百余年に及ぶその使命を終えたそうです。
三之丸跡。衣之渡川と中門川(三之丸川)にはさまれた一帯が三之丸後で、三之丸御殿があり
ました。現在、宮坂醸造の工場になってます。
城址から1.2kmほど北に行ったところにある、高島藩諏訪氏の菩提寺の臨江山温泉寺。
この山門(薬医門)は、どこの門かは定かではありませんが、もともと高島城にあった門で、
明治3年の寺の火災のあと、移築され、現存しています。
山門をもう1枚。
小藩ということもあってか、決して知名度が高いとは言えないのですが、復興天守もあり、
そこそこの規模の石垣もあり、行ってみる価値は十分ありです。
ちなみに、本丸内には、ポケモンを求める人があふれていて、冠木門の写真などを撮るのに
苦労しました(笑)。ポケストップの密集地として知られているようです。
天守閣内限定のスポットなんてのがあれば、入場料を稼げるのに、とか思いながら、城を後に
しました。
諏訪高島城は、天正18年(1590年)、当時の諏訪領主諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って
武蔵国に移った後、諏訪に転封した、豊臣秀吉の家臣日根野高吉が、文禄元年(1592年)から
慶長3年(1598年)まで7年ほどかかって築きました。
(それまでの旧高島城は、北方にある茶臼山にあったそうです。)
当時は、城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから、別名「諏訪の浮城」と
呼ばれました。
1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、関ケ原の合戦で東軍に属した諏訪頼水
が2万7千石で旧領諏訪に入封。以後、10代藩主忠礼に至る270年間、諏訪氏の居城となりました。
(葛飾北斎 景勝奇覧 信州諏訪湖)
まずこちらは、本丸の東にあった南之丸跡。寛永3年(1626年)に松平忠輝を幕府から預かって
以来、整備され、以後、高島藩が幕府から罪人を預かった場所です。周囲は湿地で、堀と柵に
囲まれ、ただ一つの橋が城に通じているだけの、孤立した郭でした。
本丸東側の石垣と水堀(内濠)。
本丸の南側から二之丸に通じる、土戸門跡。城の勝手口です。残念ながら、ゴミ置き場に
なってました。
本丸の南東の角にあった富士見櫓跡。
本丸。この付近には本丸御殿がありました。
本丸の東にあった持方月櫓跡。読み方は不明だそうです。
本丸の北東にある、角櫓。天守とともに、昭和45年(1970年)に復興されました。
こちらも、天守とともに復興された冠木門と冠木橋。
冠木門。
本丸の川渡門跡に移築されている三之丸御殿裏門。城が湖に面してた頃は、川渡門から直接
湖の船に乗ることが出来ました。
現在、その川渡門跡地には、三之丸にあった三之丸御殿の裏門が移築されています。
本丸側から見た復興天守閣。
天守閣に隣接して立っていた小天守の跡。
二之丸側から見る天守閣、石垣と塀。石垣は野面積です。
天守閣の石垣と、本丸の正面(北側)と東側の石垣は規模が大きい一方で、西側(湖側)と南側の
石積みはとても簡素なものです。
角櫓。
西側から見る天守閣。
かつては湖に面していた西側の石積み。とても簡易な造りですね。
二之丸と三之丸の間を流れる、衣之渡川。堀の役目を果たしてました。
二之丸から三之丸に渡る三之丸橋の袂にある、三之丸温泉跡。碑文によると、天明六年(1786)、
高島城天守石垣の修復大工事の年の十一月、下鶴沼(現在の弁天町)に自然湧出していた温泉を
木管で引湯してこの地に浴室と汲み湯場を設け、当初は藩主が使用し、次いで城内居住の藩士
一同に便宜を図ったのが始まりだったそうで、その後、平成八年(1996)、現在地の第一浴場は
閉鎖取り壊され二百余年に及ぶその使命を終えたそうです。
三之丸跡。衣之渡川と中門川(三之丸川)にはさまれた一帯が三之丸後で、三之丸御殿があり
ました。現在、宮坂醸造の工場になってます。
城址から1.2kmほど北に行ったところにある、高島藩諏訪氏の菩提寺の臨江山温泉寺。
この山門(薬医門)は、どこの門かは定かではありませんが、もともと高島城にあった門で、
明治3年の寺の火災のあと、移築され、現存しています。
山門をもう1枚。
小藩ということもあってか、決して知名度が高いとは言えないのですが、復興天守もあり、
そこそこの規模の石垣もあり、行ってみる価値は十分ありです。
ちなみに、本丸内には、ポケモンを求める人があふれていて、冠木門の写真などを撮るのに
苦労しました(笑)。ポケストップの密集地として知られているようです。
天守閣内限定のスポットなんてのがあれば、入場料を稼げるのに、とか思いながら、城を後に
しました。
2016-09-18 17:02
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コメント(2)
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浮き城ですね。
by ねじまき鳥 (2016-09-18 23:53)
こじんまりした綺麗なお城ですよね!
私も、訪れた事有ります!
城は入るとがっかりですが外から観ると素敵です!
ポケモン…城内は止めてほしいな!
by kazumin (2016-09-20 07:38)