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(日本100名城)高遠城へ [甲信越]

先月、桜の名所として知られる、日本100名城の一つ、高遠城に初めて行ってみました。

高遠城は、三峰川と藤沢川の間にある丘の上に築かれた平山城で、古くから諏訪氏一門の高遠氏
の居城でした。その後、武田氏の勢力下になり、天文16年(1547年)に拡張改修されました。
この改修を指揮したのが山本勘助と言われているそうです。
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代します。そして
元禄4年(1691年)内藤清枚が3万3千石で入封し、以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治
維新を迎えました。
明治時代になり、建物は払い下げられ、堀の一部が埋め立てられてしまいましたが、今も各
曲輪を囲む広大な空堀は残っているなど、戦国時代の重要な拠点だった様子を今もうかがうこと
が出来ます。

それでは、城内の写真をご覧ください。
大手門跡の石垣。
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廃城後の改変が著しく、江戸時代から残る石垣が少ない中で、右側に突き出した石垣は大手門の
枡形の石垣と思われるそうです。
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これが、高遠城の縄張りです。大手門を出たところに大手坂という坂がありました。
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下は江戸時代末期の絵図です。ここの大手坂には石垣が描かれています。
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こちらが、現存する大手坂の石垣です。城内の石垣では、江戸時代からあったことがはっきり
している、数少ない石垣の1つです。
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大手門から本丸方面へと向かう道の両側にも石垣があります。左に三の丸、右に武家屋敷の
あった場所です。この石垣も当時のものであってほしいです。
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勘助曲輪と三の丸の間にある「石垣」。古そうにも見えるし、近代のもののようにも見えます。
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今は大型バス用の駐車場となっている、勘助曲輪の跡地。勘助曲輪の名前は、武田氏の時代に
高遠城を縄張りとした言われる山本勘助に由来しますが、その当時はこの曲輪はなく、大手門
を東側から西側に移した江戸時代初期に造成されたと言われているそうです。
駐車場の中央に堀があり、その南側(写真奥)が勘助曲輪、北側(写真手前)が武家屋敷となって
いたそうです。
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三の丸に移築されている(伝)大手門。幕末時点で城内には大手、二の丸、本丸、搦手の4つの
櫓門がありましたが、明治5年(1872年)新政府からの取り壊し命令により、その他の建造物や
樹木とともに競売に付されて民間や寺院等に払い下げられました。
この門は、そのうちの大手門と言われていますが、形は切り詰められて、往時の姿とは大きく
異なってしまっているそうです。
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三の丸跡。
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三の丸付近にも、こうして、草に覆われた石垣が点在していました。江戸時代のものであって
欲しいです。
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本丸から二の丸へと桜雲橋を渡ったところにある、問屋門。城下の本町の問屋役所にあった門
です。その後、他に売却されましたが、昭和23年、町の有志によって買い戻され、現在の位置に
移築されました。
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二の丸側から見た問屋門。ここの石積みも、往時のもののようです。
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本丸の南隅櫓跡に建てられた太鼓楼。
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本丸跡。
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本丸と南曲輪の間の空堀。
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南曲輪。保科正之が幼少の頃、母親とともにこの曲輪に居住したと言われています。
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城の南側にある、法幢院曲輪。かつて、法幢院というお寺が、この曲輪内にあったそうです。
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法幢院曲輪と二の丸の間の空堀。
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南曲輪と法幢院曲輪の間の空堀。
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二の丸。
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二の丸の東側にある土塁。
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本丸の北側(三の丸側)の空堀。
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搦手門付近の空堀。
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搦手門跡。築城当初はこちらが大手でしたが、江戸時代になって軍事的要素が弱まってから
表裏口を変更し、こちらが搦手門となったそうです。
空堀に架けられた橋を渡ると、冠木門(棟門)、枡形、そして櫓門があったそうです。
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万延元年(1860年)三の丸に建てられた藩校「進徳館」。当時は八棟ありましたが、現存する
のは東西二棟と玄関、表門で、それ以外は1871年の閉鎖後に取り払われてしまいました。
こちらは玄関側です。
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進徳館の反対側です。
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最後に、城址の近くにある高遠町歴史博物館の敷地内に復元された絵島囲み屋敷。
大奥の女中のなかで大年寄にまで上り詰めた絵島は、その後、江戸から高遠に遠流されてしまい
ます。そして生涯を終えるまでの28年間、囲み屋敷に幽閉されることになります。
当時のに見取り図を元に復元されたのが、この建物です。
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