長浜城と長浜駅舎 [関西]
小谷城を後にし、次に向かったのが長浜城です。
長浜城は、小谷城主浅井氏との戦いの功労により、浅井氏の領地を与えられ小谷城主となった羽柴秀吉
が、琵琶湖に近い今浜(現在の長浜)の方が便が良いとして築いた城です。天正3年秋頃、城が完成
すると地名を今浜から長浜に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、同時に城下町も小谷から長浜に
移しました。
天正10年(1582年)、織田信長亡きあと、長浜城は一時的に柴田勝家の甥の勝豊が城主となりますが、
その後すぐに秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り戻しました。
秀吉が大阪城に移ってからは、山内一豊、内藤信成、内藤信正が城主となりましたが、豊臣氏の
滅亡後は取り壊され、石垣など大半の資材が彦根城の建築に利用されました。
昭和58年(1983年)には、市民の寄付金などで模擬天守が建設されています。
その長浜城ですが、桜はまだ満開には早かったようですが、桃(だと思いますが...)がきれいに咲き
ほこっていました。下の写真は、(たぶん)桃の花と模擬天守です。
桃の花を見ながら、天守の写真をもう1枚。
長浜城模擬天守。
天守の周りには桜の木もたくさんありましたが、まだ5分咲きくらいでした。
長浜城の桜をもう1枚。
本丸跡。
天守閣跡。右にあるのは秀吉公の像です。
長浜城址には往時をしのぶ遺構らしきものはほとんど残っていませんが、市内には長浜城の城門と
伝えられる門が二か所にあります。
その一つが、長浜城の鬼門を守るために小谷城下から移築させたという知善院。その表門は
長浜城の搦手門を移築したものと伝えられています。
こちらは、大通寺の台所門です。長浜城の大手門だったと伝えられています。
長浜城を見学した後は、JR長浜駅前にある「長浜鉄道スクエア」に行ってみました。
「長浜鉄道スクエア」は、現存する日本最古の駅舎である旧長浜駅舎と、長浜の鉄道文化を後世に伝える
長浜鉄道資料館、そして北陸線電化記念館、からなります。
1882年(明治15年)3月、柳ヶ瀬トンネル区間を除き、長浜~敦賀間の鉄道が開通し、同時に長浜駅舎が
完成します。また同年5月には長浜~大津間の鉄道連絡船が開業します。まだこの時点では、北海道の小樽~
札幌間、本州の新橋~横浜間、大津~神戸間しか開通している路線はなく、かなり早い段階で、長浜駅が
敦賀線(北陸線)の起点駅として、そして長浜~大津間の鉄道連絡船の駅として、長浜駅は開業して
いたことになります。
その後、1883年(明治16年)に長浜~関ヶ原間が開通。さらには、1889年(明治22年)4月の長浜~新橋間の
全通、7月の新橋~神戸間の全通、鉄道連絡船の終航を経て、1903年(明治36年)に長浜駅の新駅舎が完成し、
旧駅舎の使用は中止されました。その後も旧駅舎は解体されることなく、1958年(昭和33年)、「鉄道
記念物」に指定され、今も明治の鉄道の姿を伝えています。こちらが、その旧駅舎です。
旧駅舎の前に保存されている「旧長浜駅29号分岐器ポイント部」です。長浜~関ヶ原間の旧線が
廃止になる1899年(明治32年)まで、長浜駅構内で使用されていました。長浜~敦賀間の建設の際に
部品をイギリスから輸入し鉄道局の神戸工場で製作されたという、貴重な鉄道遺産の1つで、現存
する最古のポイントです。
駅舎の中の様子です。こちらは当時の出札口(乗車券類を販売する窓口)です。
1・2等待合室。3等待合室とは格段の差で、上層階級の人々が利用していたと思われるそうです。
駅長室。駅長さんはなぜか、ケースの中です。
改札口です。
北陸線電化記念館に来ました。ここには、D51 793号機と、ED70 1号機が展示されてました。
D51 793は、1942年(昭和17年)製で、東北・東海道・中央・北陸の各線を1970年(昭和45年)まで
走り続け、その後、長浜で保存されています。
ED70は、田村~敦賀間の交流電化にあわせて製造された、日本で最初の交流用電気機関車です。
1号機は1957年(昭和32年)に製造され、1975年(昭和50年)に現役を退きました。ED70の中で静態
保存いるのは、この1号機のみだそうです。
最後に、旧駅舎をもう1枚。まだ満開ではありませんでしたが、桜も咲いていて、絵になる風景
でした。
これでようやく、一人旅の3日目が終了しました。次回からは、一人旅の最終日、伊賀上野から
桑名へと訪ねて歩いた4日目の様子を記事にする予定です。
長浜城は、小谷城主浅井氏との戦いの功労により、浅井氏の領地を与えられ小谷城主となった羽柴秀吉
が、琵琶湖に近い今浜(現在の長浜)の方が便が良いとして築いた城です。天正3年秋頃、城が完成
すると地名を今浜から長浜に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、同時に城下町も小谷から長浜に
移しました。
天正10年(1582年)、織田信長亡きあと、長浜城は一時的に柴田勝家の甥の勝豊が城主となりますが、
その後すぐに秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り戻しました。
秀吉が大阪城に移ってからは、山内一豊、内藤信成、内藤信正が城主となりましたが、豊臣氏の
滅亡後は取り壊され、石垣など大半の資材が彦根城の建築に利用されました。
昭和58年(1983年)には、市民の寄付金などで模擬天守が建設されています。
その長浜城ですが、桜はまだ満開には早かったようですが、桃(だと思いますが...)がきれいに咲き
ほこっていました。下の写真は、(たぶん)桃の花と模擬天守です。
桃の花を見ながら、天守の写真をもう1枚。
長浜城模擬天守。
天守の周りには桜の木もたくさんありましたが、まだ5分咲きくらいでした。
長浜城の桜をもう1枚。
本丸跡。
天守閣跡。右にあるのは秀吉公の像です。
長浜城址には往時をしのぶ遺構らしきものはほとんど残っていませんが、市内には長浜城の城門と
伝えられる門が二か所にあります。
その一つが、長浜城の鬼門を守るために小谷城下から移築させたという知善院。その表門は
長浜城の搦手門を移築したものと伝えられています。
こちらは、大通寺の台所門です。長浜城の大手門だったと伝えられています。
長浜城を見学した後は、JR長浜駅前にある「長浜鉄道スクエア」に行ってみました。
「長浜鉄道スクエア」は、現存する日本最古の駅舎である旧長浜駅舎と、長浜の鉄道文化を後世に伝える
長浜鉄道資料館、そして北陸線電化記念館、からなります。
1882年(明治15年)3月、柳ヶ瀬トンネル区間を除き、長浜~敦賀間の鉄道が開通し、同時に長浜駅舎が
完成します。また同年5月には長浜~大津間の鉄道連絡船が開業します。まだこの時点では、北海道の小樽~
札幌間、本州の新橋~横浜間、大津~神戸間しか開通している路線はなく、かなり早い段階で、長浜駅が
敦賀線(北陸線)の起点駅として、そして長浜~大津間の鉄道連絡船の駅として、長浜駅は開業して
いたことになります。
その後、1883年(明治16年)に長浜~関ヶ原間が開通。さらには、1889年(明治22年)4月の長浜~新橋間の
全通、7月の新橋~神戸間の全通、鉄道連絡船の終航を経て、1903年(明治36年)に長浜駅の新駅舎が完成し、
旧駅舎の使用は中止されました。その後も旧駅舎は解体されることなく、1958年(昭和33年)、「鉄道
記念物」に指定され、今も明治の鉄道の姿を伝えています。こちらが、その旧駅舎です。
旧駅舎の前に保存されている「旧長浜駅29号分岐器ポイント部」です。長浜~関ヶ原間の旧線が
廃止になる1899年(明治32年)まで、長浜駅構内で使用されていました。長浜~敦賀間の建設の際に
部品をイギリスから輸入し鉄道局の神戸工場で製作されたという、貴重な鉄道遺産の1つで、現存
する最古のポイントです。
駅舎の中の様子です。こちらは当時の出札口(乗車券類を販売する窓口)です。
1・2等待合室。3等待合室とは格段の差で、上層階級の人々が利用していたと思われるそうです。
駅長室。駅長さんはなぜか、ケースの中です。
改札口です。
北陸線電化記念館に来ました。ここには、D51 793号機と、ED70 1号機が展示されてました。
D51 793は、1942年(昭和17年)製で、東北・東海道・中央・北陸の各線を1970年(昭和45年)まで
走り続け、その後、長浜で保存されています。
ED70は、田村~敦賀間の交流電化にあわせて製造された、日本で最初の交流用電気機関車です。
1号機は1957年(昭和32年)に製造され、1975年(昭和50年)に現役を退きました。ED70の中で静態
保存いるのは、この1号機のみだそうです。
最後に、旧駅舎をもう1枚。まだ満開ではありませんでしたが、桜も咲いていて、絵になる風景
でした。
これでようやく、一人旅の3日目が終了しました。次回からは、一人旅の最終日、伊賀上野から
桑名へと訪ねて歩いた4日目の様子を記事にする予定です。
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