霧に包まれる岐阜城へ(日本100名城) [東海]
(ようやく)一人旅の三日目は岐阜城からスタートです。
岐阜城は標高約330mの金華山の山頂にあり、日本の城郭の中での有数の高さにあります。
かつては稲葉山城と呼ばれ、当初の築城は鎌倉時代の建仁年間(1201~1204年)という、非常に歴史のある城の
1つです。戦国時代には斎藤道三の居城でもありましたが、永禄10年(1567年)に織田信長がこの城を攻略
し、この地方一帯を平定するとともに、地名を「岐阜」と改称。城も岐阜城とし、山頂に居住屋敷、
山麓に居館を設けるなど、天下統一への足掛かりに相応しい城へと改修します。
天正3年(1575年)に信長が安土城に移ってからは、織田信忠(信長の長男)、神戸信孝(信長の3男)、
池田元助(豊臣秀吉の家臣、池田輝政の兄)、池田輝政(後の姫路城主)、豊臣秀勝、織田秀信(信長の孫)、
と城主が変遷。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍についた、かつての城主池田輝政などに攻められ
開城。翌慶長6年(1601年)に徳川家康が廃城を決め、天守や櫓等が加納城に移されてしまいました。
現在、昭和31年に再建された天守が山頂にあるほか、ごく一部ながら石垣が残っています。
また、麓の織田信長の居館跡は巨石列や石垣が残っていて、建物のほかに庭園や池などもある、
かなり大規模なものだったようです。今も発掘調査が続けられています。
それでは、岐阜城に向かいましょう。下の写真は麓にある岐阜公園です。ここでも桜は満開でした。
ただ、残念ながら前夜からの雨がまだ止んでませんでした。
山頂の城址には麓から歩いて登る、という選択肢もありますが、往復1,080円の金華山ロープウェー
を利用するのが便利です。このロープウェーですが、平日の朝ということもあって、私は往復とも
乗客は自分だけ、でしたが、その前後に団体客が到着した際には満員になってました。
ロープウェーからの景色も楽しむなら、乗車するタイミングはよく見た方が良いですね。
ロープウェーを降りてすぐにあるのが、この「天下第一の門」です。岐阜城の遺構ではなく、信長の
偉業を称えて、現代になって建てた門です。
ここが、伝 一ノ門跡です。倒れた巨石や、右手に石垣の一部が残っています。
そして、伝 二ノ門跡です。前夜からの雨や気温の影響で、この日の金華山の山頂付近は、かなりの
深い霧でした。
二の丸(下台所)跡です。
二の丸から本丸へと続く道で見た復興天守。霧に包まれていて、ほとんど見えません。
天守台の石垣。
天守。霧に加えて、生い茂った樹木も邪魔で、全体をきれいを見ることが出来ません。
本丸下の石垣。
角度を変えて、天守をもう1枚。
本丸と二の丸の間の通路に脇に残る石垣。城内でもっとも石垣がよく残っている場所です。
石垣の近くにある井戸跡。
ここからは、信長の居館跡の写真を数枚。ここは、館の入り口です。通路の両脇に巨大な石が
並んでいます。
石垣と水路。
館へと続く通路。
このあたりは、発掘調査中です。
更に、4枚。庭園が6か所あったことが分かるなど、かなり大規模な居館で、水路が至るところに
巡らされていたようです。
ここで城址を離れ、城下にある岐阜城の遺構を2か所訪ねてみました。
岐阜公園からすぐのところにある妙照寺には、岐阜城から移築されたと言われている山門があります。
ちなみに、この妙照寺のある場所は、斎藤氏の時代には竹中半兵衛重治の屋敷があったそうです。
同じ市内にある法華寺の山門も、岐阜城の城門を移築したものと言われています。
ご参考までに、法華寺の境内。桜がきれいに咲いていました。
こうしてみると、維新まで続き、江戸時代に何度も整備された近代城郭も迫力があって見どころ
がありますが、岐阜城のように戦国時代の終わりまでに廃城になってしまった、野面積みの石垣の
残る古い城も、ロマンがありますね。むしろ、激しい戦いに敗れた悲しい歴史を持つ、こうした城郭の
方が、想像力をかきたてられて、面白いのかもしれませんね。
次回は、岐阜城とは比較にならないほどの悲劇の歴史をもつ、滋賀県の小谷城について、記事にする
予定です。
岐阜城は標高約330mの金華山の山頂にあり、日本の城郭の中での有数の高さにあります。
かつては稲葉山城と呼ばれ、当初の築城は鎌倉時代の建仁年間(1201~1204年)という、非常に歴史のある城の
1つです。戦国時代には斎藤道三の居城でもありましたが、永禄10年(1567年)に織田信長がこの城を攻略
し、この地方一帯を平定するとともに、地名を「岐阜」と改称。城も岐阜城とし、山頂に居住屋敷、
山麓に居館を設けるなど、天下統一への足掛かりに相応しい城へと改修します。
天正3年(1575年)に信長が安土城に移ってからは、織田信忠(信長の長男)、神戸信孝(信長の3男)、
池田元助(豊臣秀吉の家臣、池田輝政の兄)、池田輝政(後の姫路城主)、豊臣秀勝、織田秀信(信長の孫)、
と城主が変遷。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍についた、かつての城主池田輝政などに攻められ
開城。翌慶長6年(1601年)に徳川家康が廃城を決め、天守や櫓等が加納城に移されてしまいました。
現在、昭和31年に再建された天守が山頂にあるほか、ごく一部ながら石垣が残っています。
また、麓の織田信長の居館跡は巨石列や石垣が残っていて、建物のほかに庭園や池などもある、
かなり大規模なものだったようです。今も発掘調査が続けられています。
それでは、岐阜城に向かいましょう。下の写真は麓にある岐阜公園です。ここでも桜は満開でした。
ただ、残念ながら前夜からの雨がまだ止んでませんでした。
山頂の城址には麓から歩いて登る、という選択肢もありますが、往復1,080円の金華山ロープウェー
を利用するのが便利です。このロープウェーですが、平日の朝ということもあって、私は往復とも
乗客は自分だけ、でしたが、その前後に団体客が到着した際には満員になってました。
ロープウェーからの景色も楽しむなら、乗車するタイミングはよく見た方が良いですね。
ロープウェーを降りてすぐにあるのが、この「天下第一の門」です。岐阜城の遺構ではなく、信長の
偉業を称えて、現代になって建てた門です。
ここが、伝 一ノ門跡です。倒れた巨石や、右手に石垣の一部が残っています。
そして、伝 二ノ門跡です。前夜からの雨や気温の影響で、この日の金華山の山頂付近は、かなりの
深い霧でした。
二の丸(下台所)跡です。
二の丸から本丸へと続く道で見た復興天守。霧に包まれていて、ほとんど見えません。
天守台の石垣。
天守。霧に加えて、生い茂った樹木も邪魔で、全体をきれいを見ることが出来ません。
本丸下の石垣。
角度を変えて、天守をもう1枚。
本丸と二の丸の間の通路に脇に残る石垣。城内でもっとも石垣がよく残っている場所です。
石垣の近くにある井戸跡。
ここからは、信長の居館跡の写真を数枚。ここは、館の入り口です。通路の両脇に巨大な石が
並んでいます。
石垣と水路。
館へと続く通路。
このあたりは、発掘調査中です。
更に、4枚。庭園が6か所あったことが分かるなど、かなり大規模な居館で、水路が至るところに
巡らされていたようです。
ここで城址を離れ、城下にある岐阜城の遺構を2か所訪ねてみました。
岐阜公園からすぐのところにある妙照寺には、岐阜城から移築されたと言われている山門があります。
ちなみに、この妙照寺のある場所は、斎藤氏の時代には竹中半兵衛重治の屋敷があったそうです。
同じ市内にある法華寺の山門も、岐阜城の城門を移築したものと言われています。
ご参考までに、法華寺の境内。桜がきれいに咲いていました。
こうしてみると、維新まで続き、江戸時代に何度も整備された近代城郭も迫力があって見どころ
がありますが、岐阜城のように戦国時代の終わりまでに廃城になってしまった、野面積みの石垣の
残る古い城も、ロマンがありますね。むしろ、激しい戦いに敗れた悲しい歴史を持つ、こうした城郭の
方が、想像力をかきたてられて、面白いのかもしれませんね。
次回は、岐阜城とは比較にならないほどの悲劇の歴史をもつ、滋賀県の小谷城について、記事にする
予定です。
タグ:稲葉山
素晴らしい石垣と、天気!私(雨男)にピッタリ!
修復中(?)の箇所が、きれいになるといいです。
by hanamura (2017-05-09 06:45)