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桜の咲く吉田城へ(続日本100名城) [東海]

4月6日、続日本100名城が発表されたちょうど日、その続日本100名城の1つに選定された吉田城に行って
きました。

この地には当初、永正2年(1505年)に、今川氏親の命により、牧野古白が現在の豊城神社のある金柑丸のあたりに
築城しました。
その後はたびたび、城主が変わりましたが、天正18年(1590年)に池田輝政が城主となると、城下町を含めて
大改修に着手
しました。ただし、完成する前に、輝政が関ヶ原の合戦の翌年慶長6年(1601年)に姫路に転封になり、それ以降は
小大名が藩主だったため、未完成のまま明治時代を迎えることになります。

現在では、二の丸と三の丸の西側部分は小学校や市役所、南側や東側は公園や美術館となっていますが、本丸と
豊川沿いの部分は石垣や堀、土塁など、旧状がよく残っていて、本丸の西北には復興された鉄櫓があります。
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吉田城の縄張です。青字は私が追記しました。
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それでは、三の丸から城内を回ってみることにします。こちらは、三の丸口門跡の石垣です。
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三の丸口門から三の丸跡に入った辺りから二の丸跡にかけてが公園で、桜がちょうど見頃を迎えていました。
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三の丸の東側にあった川毛口門跡の土塁です。
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三の丸の西側部分は現在は豊城中学校の敷地になっていますが、その北側、豊川沿いに吉田城の水門跡があります。
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三の丸の北東側から見た石垣と堀です。
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二の丸、そして金柑丸から本丸へと進んでみます。写真は、二の丸口門跡です。当時の面影は全く
ありません。
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金柑丸と三の丸の間の堀です。当時は水堀だったようです。
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金柑丸と本丸との間の堀と土塁です。右側が本丸です。
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本丸の南側には、二の丸から本丸へと通じる冠木門跡(手前)と、南御多門跡(奥)がありました。
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南御多門、そして千貫櫓(左)付近の石垣です。
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本丸の東側にあった、裏御門跡です。
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北御門跡の枡形の石垣です。
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本丸の北東側にあった入道櫓跡の石垣です。
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本丸の南東側にあった辰巳櫓跡の石垣です。
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本丸の南西側にあった千貫櫓跡の石垣です。
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本丸の北西側にある、昭和29年に復興された鉄櫓です。吉田城には天守はなく、この鉄櫓が天守の
代わりだったそうです。
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豊川沿いにあたる本丸の北側に移動してみます。ここは川手櫓跡です。鉄櫓に真下あたりで、三層の櫓があって、
北側からの敵への備えでした。
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川手櫓の石垣です。この付近も桜が綺麗でした。
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鉄櫓下の石垣と本丸堀跡です。
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本丸と豊川の間にあった腰曲輪跡です。右側は北御多門跡です。石垣の奥に、二層の入道櫓がありました。
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豊川の川沿いから見上げた鉄櫓です。
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最後に豊川の向こう岸から撮った鉄櫓の写真を2枚。桜が咲いているのが川手櫓跡です。
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鉄櫓の左の石垣、土塀上は武具所跡、その左が北御多門跡の枡形の石垣、鉄櫓の真下が川手櫓跡です。
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現存する建物はありませんが、本丸の北側を中心に、石垣や堀、土塁がかなり残っていますし、お花見スポット
としての価値もありますし、ここはおススメですね。続100名城にも選ばれましたし、来城者が増えるだけで
なく、門や櫓が更に復元されることを期待しています。
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コメント 1

hanamura

豊橋いいですよねぇ!
菜飯田楽が食べたくなっています。
by hanamura (2017-04-25 06:49) 

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