(日本100名城)大洲城へ [四国]
3月4日に行った愛媛の城巡りの最後は大洲城です。
大洲城は元弘元年(1331年)頃に、宇都宮豊房によって築かれた城で、秀吉による四国平定後は
戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰と城主が入れ替わり、その後加藤氏のまま維新を迎え
ます。
天守は明治21年に取り壊されてしまいましたが、4棟の櫓が今も残っています。また、天守も、
平成16年に木造で復元され、台所櫓、高欄櫓とともに、美しい姿の「連結式天守」を見ること
ができるようになりました。
二の丸跡に現存する下台所。城内の食糧庫としての機能を果たしていました。
二の丸御殿跡の石垣。下段(左側)に表御殿が、上段(右側)に奥御殿がありました。
こちらも、二の丸の石垣です。
復元された御門番長屋。二の丸内の仕切り塀の門に付属する建物です。
二の丸の西隅にあった玉櫓跡。
本丸の南側にあった、かま櫓跡。
本丸の石垣。
暗り門(くらがりもん)跡。天守に至る最後の門で、城内で最も大きな櫓門がありました。
天守と高欄櫓。
本丸廻り櫓跡。本丸は主要な建物を多聞櫓がつなぎ、本丸全体が櫓で囲われていました。
本丸に建つ台所櫓(右)、天守、高欄櫓(左)です。
台所櫓。大洲城の櫓の中では最大級のもので、地震で大破したため、安政6年(1859)に
再建されたものです。
高欄櫓。大洲城の中で唯一2階に縁と高欄のある櫓です。現在の高欄櫓は、台所櫓同様、
万延元年(1860)に再建されたものです。
北の菱御門(二の丸搦手門)跡。二の丸の裏門にあたる櫓門がありました。
内堀跡。二の丸と三の丸の間にあった堀です。
三の丸北西隅櫓跡の石垣。
肱川側から見た、連立式天守です。
大洲城は肱川に面して建てられていて、今も二の丸の石垣が肱川沿いにあります。
これまで自分が見てきた中では、湖や川に面していたお城も、その後の市街化や治水工事等に
より、今では街中にある、というケースが多かったのですが、ここは今もしっかり、石垣が
川のすぐ脇にありました。地形が築城当時のままなんでしょうね。
川沿いの石垣をもう1枚。
水の手櫓、水の手御門跡。この門を抜けると、肱川の水面に直接出られたそうです。
肱川沿いの二の丸東端に現存する苧綿櫓(おわたやぐら)。天保14年(1843)に再建された
ものです。
芋綿櫓をもう1枚。
三の丸南隅櫓。明和3年(1766)に建てられたもので、大洲城に現存する最古の建物です。
三の丸の外側にあった外堀に面して建てられていました。
三の丸の外堀の石垣。この付近の外堀は、現在は大洲高校のグランドになってます。
三の丸南隅櫓を、本丸の台所櫓、天守、高欄櫓と一緒に、撮ってみました。
最後に、お城とは直接関係ありませんが、今回の日帰り旅行で唯一の「撮り鉄」です。
肱川を渡る、キロ47形2両の「伊予灘ものがたり」号を撮ってみました。
大洲城の本丸では、この列車が通ると、居合わせた観光客も一緒に、幟を立てて、合図を
送ってました。
ということで、松山城、宇和島城、大洲城を一日で駆け抜けてきました。次回はもっとゆっくり
街並みとかも楽しみたいです。
明日からしばらく旅行に出るので、皆様のブログへの訪問が滞ります。8日夜には戻りますので、
よろしくお願いします。
大洲城は元弘元年(1331年)頃に、宇都宮豊房によって築かれた城で、秀吉による四国平定後は
戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰と城主が入れ替わり、その後加藤氏のまま維新を迎え
ます。
天守は明治21年に取り壊されてしまいましたが、4棟の櫓が今も残っています。また、天守も、
平成16年に木造で復元され、台所櫓、高欄櫓とともに、美しい姿の「連結式天守」を見ること
ができるようになりました。
二の丸跡に現存する下台所。城内の食糧庫としての機能を果たしていました。
二の丸御殿跡の石垣。下段(左側)に表御殿が、上段(右側)に奥御殿がありました。
こちらも、二の丸の石垣です。
復元された御門番長屋。二の丸内の仕切り塀の門に付属する建物です。
二の丸の西隅にあった玉櫓跡。
本丸の南側にあった、かま櫓跡。
本丸の石垣。
暗り門(くらがりもん)跡。天守に至る最後の門で、城内で最も大きな櫓門がありました。
天守と高欄櫓。
本丸廻り櫓跡。本丸は主要な建物を多聞櫓がつなぎ、本丸全体が櫓で囲われていました。
本丸に建つ台所櫓(右)、天守、高欄櫓(左)です。
台所櫓。大洲城の櫓の中では最大級のもので、地震で大破したため、安政6年(1859)に
再建されたものです。
高欄櫓。大洲城の中で唯一2階に縁と高欄のある櫓です。現在の高欄櫓は、台所櫓同様、
万延元年(1860)に再建されたものです。
北の菱御門(二の丸搦手門)跡。二の丸の裏門にあたる櫓門がありました。
内堀跡。二の丸と三の丸の間にあった堀です。
三の丸北西隅櫓跡の石垣。
肱川側から見た、連立式天守です。
大洲城は肱川に面して建てられていて、今も二の丸の石垣が肱川沿いにあります。
これまで自分が見てきた中では、湖や川に面していたお城も、その後の市街化や治水工事等に
より、今では街中にある、というケースが多かったのですが、ここは今もしっかり、石垣が
川のすぐ脇にありました。地形が築城当時のままなんでしょうね。
川沿いの石垣をもう1枚。
水の手櫓、水の手御門跡。この門を抜けると、肱川の水面に直接出られたそうです。
肱川沿いの二の丸東端に現存する苧綿櫓(おわたやぐら)。天保14年(1843)に再建された
ものです。
芋綿櫓をもう1枚。
三の丸南隅櫓。明和3年(1766)に建てられたもので、大洲城に現存する最古の建物です。
三の丸の外側にあった外堀に面して建てられていました。
三の丸の外堀の石垣。この付近の外堀は、現在は大洲高校のグランドになってます。
三の丸南隅櫓を、本丸の台所櫓、天守、高欄櫓と一緒に、撮ってみました。
最後に、お城とは直接関係ありませんが、今回の日帰り旅行で唯一の「撮り鉄」です。
肱川を渡る、キロ47形2両の「伊予灘ものがたり」号を撮ってみました。
大洲城の本丸では、この列車が通ると、居合わせた観光客も一緒に、幟を立てて、合図を
送ってました。
ということで、松山城、宇和島城、大洲城を一日で駆け抜けてきました。次回はもっとゆっくり
街並みとかも楽しみたいです。
明日からしばらく旅行に出るので、皆様のブログへの訪問が滞ります。8日夜には戻りますので、
よろしくお願いします。
美しいお城ですね。
一度は行ってみたいです!
by かずのこ (2017-04-05 07:44)