(日本100名城)松山城へ③ [四国]
今回はいよいよ、現存する連立式天守のある本壇に入ります。
まずは、天守に通じる本壇入口を守る一ノ門です。天明4年(1784年)に雷火のため天守とともに
焼失し、天明6年(1786年)に再建されました。二ノ門との間は枡形の空間になっていて、小天守、
一ノ門南櫓、二ノ門南櫓、三ノ門南櫓の四方から攻撃できます。高麗門形式です。
本壇の図面です。これを見て頂くと、この後に出てくる建造物の位置関係がよくわかると
思います。
一ノ門を二ノ門側から見てみました。後方に小天守があります。
本壇で二番目の門の、二ノ門。薬井門形式の門で、天明4年(1784年)の焼失後、安政元年(1854年)
に再建されました。
天神櫓。松平家の先祖である菅原道真公の像を安置し、城の安全を祈ったことから、この名が
あります。昭和20年に戦災により焼失し、昭和54年に復元されました。全国的にあまり例のない
寺社建築の正面扉を有する櫓です。
本丸側から見た天神櫓(右)と、天神櫓南塀(中央)。天神櫓南塀も昭和54年に復元され
ました。その奥は、大天守です。
本壇における三番目の門である、三ノ門。天明4年(1784年)に雷火のため天守とともに
焼失し、安政元年(1854年)に再建されました。
三ノ門南櫓(左)と、筋鉄門東塀(右)。三ノ門南櫓は、三ノ門と同じく、天明4年(1784年)に
焼失し、安政元年(1854年)に再建されました。筋鉄門東塀は、三の門南櫓と筋鉄門を結ぶ渡塀で、
嘉永年間(1848年~1853年)の再建と考えらています。
筋鉄門。左奥に見えるのは小天守、左手前は筋鉄門東塀です。
筋鉄門は櫓門で、櫓は大天守と小天守をつなぐ通路になっています。こちらも、天明4年(1784年)
に雷火のために焼失し、安政元年(1854年)に再建されましたが、昭和8年に放火によって一部焼失。
昭和43年に復元されました。
小天守と多聞櫓です。左側に筋鉄門、右側に南隅櫓があります。小天守、多聞櫓とも、天明4年
(1784年)に雷火のために焼失し、安政元年(1854年)に再建。その後、昭和8年に放火によって焼失し、昭和43年に復元されました。
左から、多聞櫓、南隅櫓、十間廊下です。いずれも、昭和43年に復元されました。
左から、十間廊下、北隅櫓、玄関、玄関多聞です。すべて、昭和8年に放火により焼失し、
昭和43年に復元されました。
左の櫓門が内門、右が玄関多聞です。内門も放火による焼失後、昭和43年に復元されました。
内門の櫓は、玄関多聞と大天守との間の通路になっています。
昭和8年の放火さえなければ、今も大天守のみならず、小天守や櫓を含めた連立式の天守閣
のすべてが現存していたことになります。残念ですね。ちなみに、放火犯はその後死刑になった
ようです。
内門とともに、枡形門となっている、仕切門。安政元年(1854年)に再建された現存する遺構の
一つです。
南隅櫓の挟間と石落し。
十間廊下から見下ろした、乾櫓(奥)と乾門東続櫓。乾櫓は現存遺構です。この日は、この
付近も立入禁止でした。
大天守。右は仕切門です。大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した
江戸時代最後の完全な城郭建築です。
小天守(左)、大天守(正面奥)、二ノ門南櫓(右)です。
丸岡城や宇和島城のような独立式の天守も絵になりますけど、この松山城のような連立式な
天守も、良いですよね。
とりわけ松山城の天守は、3重3階で規模こそ大きくはありませんが、本当に美しい姿をしている
芸術的なお城だなぁ、と、つくづく思いました。
松山城、是非、また行きたいですね。
まずは、天守に通じる本壇入口を守る一ノ門です。天明4年(1784年)に雷火のため天守とともに
焼失し、天明6年(1786年)に再建されました。二ノ門との間は枡形の空間になっていて、小天守、
一ノ門南櫓、二ノ門南櫓、三ノ門南櫓の四方から攻撃できます。高麗門形式です。
本壇の図面です。これを見て頂くと、この後に出てくる建造物の位置関係がよくわかると
思います。
一ノ門を二ノ門側から見てみました。後方に小天守があります。
本壇で二番目の門の、二ノ門。薬井門形式の門で、天明4年(1784年)の焼失後、安政元年(1854年)
に再建されました。
天神櫓。松平家の先祖である菅原道真公の像を安置し、城の安全を祈ったことから、この名が
あります。昭和20年に戦災により焼失し、昭和54年に復元されました。全国的にあまり例のない
寺社建築の正面扉を有する櫓です。
本丸側から見た天神櫓(右)と、天神櫓南塀(中央)。天神櫓南塀も昭和54年に復元され
ました。その奥は、大天守です。
本壇における三番目の門である、三ノ門。天明4年(1784年)に雷火のため天守とともに
焼失し、安政元年(1854年)に再建されました。
三ノ門南櫓(左)と、筋鉄門東塀(右)。三ノ門南櫓は、三ノ門と同じく、天明4年(1784年)に
焼失し、安政元年(1854年)に再建されました。筋鉄門東塀は、三の門南櫓と筋鉄門を結ぶ渡塀で、
嘉永年間(1848年~1853年)の再建と考えらています。
筋鉄門。左奥に見えるのは小天守、左手前は筋鉄門東塀です。
筋鉄門は櫓門で、櫓は大天守と小天守をつなぐ通路になっています。こちらも、天明4年(1784年)
に雷火のために焼失し、安政元年(1854年)に再建されましたが、昭和8年に放火によって一部焼失。
昭和43年に復元されました。
小天守と多聞櫓です。左側に筋鉄門、右側に南隅櫓があります。小天守、多聞櫓とも、天明4年
(1784年)に雷火のために焼失し、安政元年(1854年)に再建。その後、昭和8年に放火によって焼失し、昭和43年に復元されました。
左から、多聞櫓、南隅櫓、十間廊下です。いずれも、昭和43年に復元されました。
左から、十間廊下、北隅櫓、玄関、玄関多聞です。すべて、昭和8年に放火により焼失し、
昭和43年に復元されました。
左の櫓門が内門、右が玄関多聞です。内門も放火による焼失後、昭和43年に復元されました。
内門の櫓は、玄関多聞と大天守との間の通路になっています。
昭和8年の放火さえなければ、今も大天守のみならず、小天守や櫓を含めた連立式の天守閣
のすべてが現存していたことになります。残念ですね。ちなみに、放火犯はその後死刑になった
ようです。
内門とともに、枡形門となっている、仕切門。安政元年(1854年)に再建された現存する遺構の
一つです。
南隅櫓の挟間と石落し。
十間廊下から見下ろした、乾櫓(奥)と乾門東続櫓。乾櫓は現存遺構です。この日は、この
付近も立入禁止でした。
大天守。右は仕切門です。大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した
江戸時代最後の完全な城郭建築です。
小天守(左)、大天守(正面奥)、二ノ門南櫓(右)です。
丸岡城や宇和島城のような独立式の天守も絵になりますけど、この松山城のような連立式な
天守も、良いですよね。
とりわけ松山城の天守は、3重3階で規模こそ大きくはありませんが、本当に美しい姿をしている
芸術的なお城だなぁ、と、つくづく思いました。
松山城、是非、また行きたいですね。
今だ四国の地を踏んだことないけど、このお城に是非一度言ってみたいデス。
by ipanemaoyaji (2017-03-25 17:26)