米沢城址 [東北]
これも、8月中旬に米沢に行った時の記事になります。
米沢城は元々は、伊達氏の本拠地でしたが、秀吉の奥州仕置きにより、伊達氏は仙台に移り、
その後は会津若松に入った蒲生氏、上杉氏の支城となります。上杉景勝の時代には、直江兼続
が秀吉の特別なはからいで米沢城主となり、関ケ原の合戦後は、上杉氏の本拠地となりました。
現在の米沢城址の縄張りは、景勝に大改修を命じられた兼続が行い、慶長18年(1613年)輪郭
式の縄張りを持つ城が完成したそうです。当時の城は幕府に対する遠慮から、石垣はなく、堀と
土塁を巡らしただけのシンプルな構造です。加えて、明治になったすべての建物が破却され、
また本丸跡には上杉神社が建てられたため、いわゆるお城らしい雰囲気はあまり残っていません。
こちらは、本丸の東側にある、舞鶴橋です。上杉神社への参道として明治19年に作られた、
アーチ式の石橋です。江戸時代には、米沢城の正面にあたり、木製の太鼓橋が架けられていた
そうです。
本丸東側の水堀。
本丸北側の水堀。
本丸にある上杉謙信の祠堂跡がこの奥にありました。
上杉謙信像。
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も」で有名な
上杉鷹山像。
本丸内には、伊達政宗生誕の地の石碑もありました。
ここが、上杉謙信の祠堂跡です。
本丸の南東側の、一段高くなったところです。この奥に、天守の役割を代用した、「御三階櫓」
と呼ばれる隅櫓がありました。
本丸の西側に建てられた上杉神社の写真を3枚。
上杉神社の本殿。
本丸南側の堀。
最後に、本丸の北側、北参道付近の堀。
相変わらずの淡白な記事になりましたね。米沢って、車で行くと結構遠かったです。
でも、また行ってみたいです。
米沢城は元々は、伊達氏の本拠地でしたが、秀吉の奥州仕置きにより、伊達氏は仙台に移り、
その後は会津若松に入った蒲生氏、上杉氏の支城となります。上杉景勝の時代には、直江兼続
が秀吉の特別なはからいで米沢城主となり、関ケ原の合戦後は、上杉氏の本拠地となりました。
現在の米沢城址の縄張りは、景勝に大改修を命じられた兼続が行い、慶長18年(1613年)輪郭
式の縄張りを持つ城が完成したそうです。当時の城は幕府に対する遠慮から、石垣はなく、堀と
土塁を巡らしただけのシンプルな構造です。加えて、明治になったすべての建物が破却され、
また本丸跡には上杉神社が建てられたため、いわゆるお城らしい雰囲気はあまり残っていません。
こちらは、本丸の東側にある、舞鶴橋です。上杉神社への参道として明治19年に作られた、
アーチ式の石橋です。江戸時代には、米沢城の正面にあたり、木製の太鼓橋が架けられていた
そうです。
本丸東側の水堀。
本丸北側の水堀。
本丸にある上杉謙信の祠堂跡がこの奥にありました。
上杉謙信像。
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も」で有名な
上杉鷹山像。
本丸内には、伊達政宗生誕の地の石碑もありました。
ここが、上杉謙信の祠堂跡です。
本丸の南東側の、一段高くなったところです。この奥に、天守の役割を代用した、「御三階櫓」
と呼ばれる隅櫓がありました。
本丸の西側に建てられた上杉神社の写真を3枚。
上杉神社の本殿。
本丸南側の堀。
最後に、本丸の北側、北参道付近の堀。
相変わらずの淡白な記事になりましたね。米沢って、車で行くと結構遠かったです。
でも、また行ってみたいです。
未訪問のお城です。いつか行ってみたいです。
by ノリパ (2015-10-10 15:09)
上杉謙信は米沢にはいなかったのにやはり謙信なのですね。
景勝は影が薄い。
by ねじまき鳥 (2015-10-11 23:17)