(日本100名城)二本松城 〔前編〕 [東北]
7月下旬、福島県二本松市にある、日本100名城の1つ、二本松城址に行ってきました。
二本松城は1440年代に畠山満泰が築いた城で、その後、伊達氏、蒲生氏と城主が変わります。
蒲生氏の時代に石垣を用いた城に改修され、寛永4年(1627年)に入った加藤氏により近代
城郭へと大改修され、更に寛永20年(1643年)に丹羽光重が入封すると、三の丸御殿や箕輪門
を作り、城下を整備した、とのことです。
二本松駅から歩いて城址に向かって歩き始めると、まず最初にあるのが、この大手門跡です。
奥州道中に面した、堀をともなった大手門で、通称「坂下門」と言われたそうです。
天保3年(1832年)、幕府の許可を得て建造した本格的な櫓門でしたが、戊辰戦争の兵火に
より焼失してしまったそうです。
国史跡の戒石銘。五代藩主・丹羽高寛公が、家臣の儒学者・岩井田希夷の献策によって、
藩庁前の自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針とし、一夜のうちに刻ませたものであると
言われているそうです。
城址碑、そして後方が二階櫓。
戊辰の役(戊辰戦争)でふるさとを守るために若い命を散らした、二本松少年隊を顕彰する群像。
昭和57年に再建された、三の丸下の多聞櫓。
二階櫓と箕輪門を2枚。
枡形の石垣。
三の丸。
ここも三の丸。
本坂御殿跡の石垣。
三の丸上段。
洗心亭。もともとは丹羽藩主時代、霞ヶ城内の庭園にいくつかあった茶室の一つ「墨絵の茶屋」
です。
新城館跡。
搦手門跡の石垣。
本丸の枡形虎口の石垣。
本丸。
西櫓台跡。
写真が多いので、続きは後編にて、ご紹介したいと思います。
二本松城は1440年代に畠山満泰が築いた城で、その後、伊達氏、蒲生氏と城主が変わります。
蒲生氏の時代に石垣を用いた城に改修され、寛永4年(1627年)に入った加藤氏により近代
城郭へと大改修され、更に寛永20年(1643年)に丹羽光重が入封すると、三の丸御殿や箕輪門
を作り、城下を整備した、とのことです。
二本松駅から歩いて城址に向かって歩き始めると、まず最初にあるのが、この大手門跡です。
奥州道中に面した、堀をともなった大手門で、通称「坂下門」と言われたそうです。
天保3年(1832年)、幕府の許可を得て建造した本格的な櫓門でしたが、戊辰戦争の兵火に
より焼失してしまったそうです。
国史跡の戒石銘。五代藩主・丹羽高寛公が、家臣の儒学者・岩井田希夷の献策によって、
藩庁前の自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針とし、一夜のうちに刻ませたものであると
言われているそうです。
城址碑、そして後方が二階櫓。
戊辰の役(戊辰戦争)でふるさとを守るために若い命を散らした、二本松少年隊を顕彰する群像。
昭和57年に再建された、三の丸下の多聞櫓。
二階櫓と箕輪門を2枚。
枡形の石垣。
三の丸。
ここも三の丸。
本坂御殿跡の石垣。
三の丸上段。
洗心亭。もともとは丹羽藩主時代、霞ヶ城内の庭園にいくつかあった茶室の一つ「墨絵の茶屋」
です。
新城館跡。
搦手門跡の石垣。
本丸の枡形虎口の石垣。
本丸。
西櫓台跡。
写真が多いので、続きは後編にて、ご紹介したいと思います。