信州 長野へ(善光寺編) [甲信越]
11日、約1400年の歴史を持つ日本を代表する寺院の一つ、善光寺に行ってきました。
善光寺は、仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院で、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけ
られているそうです。
宗派はありませんが、天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営
されていて、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務めているそうです。
また、女人禁制があった旧来の仏教の中で、善光寺は最初から庶民の寺で、
女性も救うう寺として知られ、お参りすれば誰でも極楽往生できると信じられて、全国から老若
男女が訪れるようになったそうです。
さらには、ご本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済
から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれています。
それでは、善光寺の境内を歩いてみましょう。
善光寺の入り口を超え、まず左手にあるのが、大本願です。尼公上人をもって住職とし、代々
皇室関係の方々が入山されているそうです。写真は大本願 表書院です。
仁王門。善光寺大地震などにより2度焼失していて、現在の仁王門は全国の信者の篤志により、
大正7年(1918年)に再建されたものです。
境内入口から山門まで続く、石畳の参道。正徳4年(1714年)に完成したものです。参道の両側
には所狭しとお土産屋さんが並んでいます。
参道の途中を右に折れたところにある、善光寺世尊院 釋迦堂。ご本尊の銅造釈迦涅槃像は、鎌倉
時代の作とされる我が国唯一の等身大(1.66メートル)の、横臥した銅像で、国の重要文化財
です。写真撮影禁止のため紹介できませんが、見る価値十分です。
世尊院にある花ヶ池。善光寺七池の一つです。
山門(三門)。寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門で、これも国の重要文化財
です。高さ18mもあります。
本堂の側から見た山門。屋根には雪が残ってました。
本堂。宝永4年(1707年)に再建された現在の本堂は、江戸時代中期を代表する仏教建築として
国宝にしていされています。間口24m、高さ26m、奥行き54mという壮大な伽藍は東日本最大
です。
本堂では500円を払って、内陣や内々陣、内陣の左右に安置された地蔵菩薩像、弥勒菩薩像など
を観覧することができます。また、ご本尊の安置される瑠璃壇下の真っ暗な約45mの回廊を通っ
て、中程に懸かる極楽の錠前を探り当てるという「お戒壇めぐり」というのがあります。
一切の光がなく本当に真っ暗で、暗闇の苦手な私には、お化け屋敷並みの怖さがありました。
本堂の周辺には多くの石燈籠がありますが、これはその中の一つ。江戸時代、吉原の三浦屋四朗
左衛門が奉納したという高尾燈籠。
昨年2014年11月22日に発生した長野県北部地震では、石燈籠が複数破損し、鐘楼の土台の石垣が
一部崩れたそうです。そのためか、こうして、中には入れないように囲いがありました。
徳川家大奥供養塔。三代将軍家光の正室本理院、家光の乳母春日局、家光の次男綱重の正室紅玉
院などの供養塔です。こちらも先の地震で倒壊してしまったようです。
石造宝篋院塔。源義経の忠臣、佐藤継信・忠信兄弟の供養塔と言われる、この地方で最古の逆修
供養塔とのことです。
鐘楼。現在の鐘楼は嘉永6年(1853年)の再建で、6本の柱をもつ珍しい形式です。
残念ながら石垣が昨年の地震で損傷してしまいました。
梵鐘は寛文7年(1667年)鋳造の名鐘で、長野冬季オリンピックでは、この鐘の音が開会の合図
として世界に響き渡りました。
歴代の回向柱。回向柱は数え年で7年に一度開かれる善光寺最大の行事、前立御本尊御開帳に
おいて、本堂の前に建てられる高さ10mの角塔婆です。御開帳が終わるとこの場所に納められ
歴代の回向柱とともに徐々に土に還っていきます。
現在は昭和30年(1955年)から平成21年(2009年)までの10本の回向柱があり、一番古い柱は
30cm程になっています。
ちなみに、次回の御開帳は、今年の4月5日から5月31日までの57日間にわたって行われます。
経蔵。宝暦9年(1759年)に建立された宝形造りのお堂で、国の重要文化財です。現在、保存修理
事業中で、来年まで参拝することは出来ません。写真は、経蔵の裏手に回って、囲いの間から
何とか撮ったものです。
大勧進にある水子観音像。氷柱が何本も出来てました。
大勧進の本堂(萬善堂)。大勧進は善光寺の山内天台宗の本坊です。
大勧進の境内にあった、表大門の旧鬼瓦。寛政元年(1789年)の制作。
大勧進の表大門。寛政元年(1789年)の建立で、10万石の格式ある門と言われてます。
六地蔵。右手前から、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の地蔵菩薩で、右の地蔵
菩薩が片足を踏み出しているのは、一刻も早く衆生を救いに行こうという気持ち現れだと
言われています。その奥に見えるのは、享保7年(1722年)完成の濡れ仏(延命地蔵菩薩座像)
で、高さ2.7mあります。
参道から山門に向かう途中にある、駒返り橋。この石橋は、建久8年(1197年)源頼朝が善光寺を
参詣した時に、馬の蹄が穴に挟まってしまった為に駒を返したという話、「駒返り橋」と呼ばれて
いるそうです。この時、橋を渡ったところに人が並び始めたので、何があるのかな…と気になって
いたのですが。
そこへ、多くの参拝客を従えるかのように、高貴な感じの尼僧が。このお方は、善光寺住職の1人
尼公上人だったようです。駒返り橋から山門までの間にひざまづく人々の頭をなでながら、去って
いきました。これが有名なお数珠頂戴だったのでしょうか。時間は10時50分。早朝に行われる
ということだったので、違ったかもしれません。
次へ向かう時間の都合もあり、この程度で切り上げましたが、境内は広く、もっと時間をかけて
ゆっくりと散策、参拝するべきでした。さすが善光寺、奥が深いです。
善光寺は、仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院で、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけ
られているそうです。
宗派はありませんが、天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営
されていて、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務めているそうです。
また、女人禁制があった旧来の仏教の中で、善光寺は最初から庶民の寺で、
女性も救うう寺として知られ、お参りすれば誰でも極楽往生できると信じられて、全国から老若
男女が訪れるようになったそうです。
さらには、ご本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済
から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれています。
それでは、善光寺の境内を歩いてみましょう。
善光寺の入り口を超え、まず左手にあるのが、大本願です。尼公上人をもって住職とし、代々
皇室関係の方々が入山されているそうです。写真は大本願 表書院です。
仁王門。善光寺大地震などにより2度焼失していて、現在の仁王門は全国の信者の篤志により、
大正7年(1918年)に再建されたものです。
境内入口から山門まで続く、石畳の参道。正徳4年(1714年)に完成したものです。参道の両側
には所狭しとお土産屋さんが並んでいます。
参道の途中を右に折れたところにある、善光寺世尊院 釋迦堂。ご本尊の銅造釈迦涅槃像は、鎌倉
時代の作とされる我が国唯一の等身大(1.66メートル)の、横臥した銅像で、国の重要文化財
です。写真撮影禁止のため紹介できませんが、見る価値十分です。
世尊院にある花ヶ池。善光寺七池の一つです。
山門(三門)。寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門で、これも国の重要文化財
です。高さ18mもあります。
本堂の側から見た山門。屋根には雪が残ってました。
本堂。宝永4年(1707年)に再建された現在の本堂は、江戸時代中期を代表する仏教建築として
国宝にしていされています。間口24m、高さ26m、奥行き54mという壮大な伽藍は東日本最大
です。
本堂では500円を払って、内陣や内々陣、内陣の左右に安置された地蔵菩薩像、弥勒菩薩像など
を観覧することができます。また、ご本尊の安置される瑠璃壇下の真っ暗な約45mの回廊を通っ
て、中程に懸かる極楽の錠前を探り当てるという「お戒壇めぐり」というのがあります。
一切の光がなく本当に真っ暗で、暗闇の苦手な私には、お化け屋敷並みの怖さがありました。
本堂の周辺には多くの石燈籠がありますが、これはその中の一つ。江戸時代、吉原の三浦屋四朗
左衛門が奉納したという高尾燈籠。
昨年2014年11月22日に発生した長野県北部地震では、石燈籠が複数破損し、鐘楼の土台の石垣が
一部崩れたそうです。そのためか、こうして、中には入れないように囲いがありました。
徳川家大奥供養塔。三代将軍家光の正室本理院、家光の乳母春日局、家光の次男綱重の正室紅玉
院などの供養塔です。こちらも先の地震で倒壊してしまったようです。
石造宝篋院塔。源義経の忠臣、佐藤継信・忠信兄弟の供養塔と言われる、この地方で最古の逆修
供養塔とのことです。
鐘楼。現在の鐘楼は嘉永6年(1853年)の再建で、6本の柱をもつ珍しい形式です。
残念ながら石垣が昨年の地震で損傷してしまいました。
梵鐘は寛文7年(1667年)鋳造の名鐘で、長野冬季オリンピックでは、この鐘の音が開会の合図
として世界に響き渡りました。
歴代の回向柱。回向柱は数え年で7年に一度開かれる善光寺最大の行事、前立御本尊御開帳に
おいて、本堂の前に建てられる高さ10mの角塔婆です。御開帳が終わるとこの場所に納められ
歴代の回向柱とともに徐々に土に還っていきます。
現在は昭和30年(1955年)から平成21年(2009年)までの10本の回向柱があり、一番古い柱は
30cm程になっています。
ちなみに、次回の御開帳は、今年の4月5日から5月31日までの57日間にわたって行われます。
経蔵。宝暦9年(1759年)に建立された宝形造りのお堂で、国の重要文化財です。現在、保存修理
事業中で、来年まで参拝することは出来ません。写真は、経蔵の裏手に回って、囲いの間から
何とか撮ったものです。
大勧進にある水子観音像。氷柱が何本も出来てました。
大勧進の本堂(萬善堂)。大勧進は善光寺の山内天台宗の本坊です。
大勧進の境内にあった、表大門の旧鬼瓦。寛政元年(1789年)の制作。
大勧進の表大門。寛政元年(1789年)の建立で、10万石の格式ある門と言われてます。
六地蔵。右手前から、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の地蔵菩薩で、右の地蔵
菩薩が片足を踏み出しているのは、一刻も早く衆生を救いに行こうという気持ち現れだと
言われています。その奥に見えるのは、享保7年(1722年)完成の濡れ仏(延命地蔵菩薩座像)
で、高さ2.7mあります。
参道から山門に向かう途中にある、駒返り橋。この石橋は、建久8年(1197年)源頼朝が善光寺を
参詣した時に、馬の蹄が穴に挟まってしまった為に駒を返したという話、「駒返り橋」と呼ばれて
いるそうです。この時、橋を渡ったところに人が並び始めたので、何があるのかな…と気になって
いたのですが。
そこへ、多くの参拝客を従えるかのように、高貴な感じの尼僧が。このお方は、善光寺住職の1人
尼公上人だったようです。駒返り橋から山門までの間にひざまづく人々の頭をなでながら、去って
いきました。これが有名なお数珠頂戴だったのでしょうか。時間は10時50分。早朝に行われる
ということだったので、違ったかもしれません。
次へ向かう時間の都合もあり、この程度で切り上げましたが、境内は広く、もっと時間をかけて
ゆっくりと散策、参拝するべきでした。さすが善光寺、奥が深いです。
2015-01-18 15:52
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気候の良い時ならば、駅からぶらぶら歩くのもいいですね。
by takenoko (2015-01-19 07:46)