石垣山一夜城へ [関東]
4日の日曜日、初夏の爽やかな陽気にも誘われ、ちょっと足を伸ばして、小田原市早川にある石垣山
一夜城に行ってきました。
石垣山一夜城は言うまでもなく、豊臣秀吉による小田原北条攻めの際の本陣として築いたもので、
他の、政治の中心としての城とは性格を異にしますが、その規模、構造は当時の他の山城を圧倒する
くらいのものです。
石垣山、という名称はその石垣から江戸時代に呼ばれるようになったそうで、それ以前は笠懸山と呼んだ
そうです。天正18年(1590年)4月、ここに秀吉は本陣を置き、3万人を動員して築城に着手。80日後の
6月25日に竣工し、同時に、小田原側の樹木を一斉に伐り払ったため、小田原城の頭上に、一夜にして
巨大な城が現れました。そのことから、後世、一夜城、あるいは太閤一夜城、と呼ばれるようになったとか。
この一夜城を見た小田原籠城の兵士たちは一気に戦意を喪失、7月5日の開場へと展開することに
なったそうです。
その後、小田原藩の管理下にありましたが、石垣山一夜城は城として利用されることもなく、結果として、
建物こそありませんが、石垣や土塁といった遺構が今も残っています。関東で最初に造られた石垣の
城でもありますので、一見の価値ありです。
2つある城道のうち、駐車場に近い、東口から城址へと向かいます。
ちなみに今回は初めて、マイカーではなく、JR東海道線早川駅から歩いて見ました。
舗装された車道ではありますが、上り坂を40分ほど歩いて、ようやく城址に着きました。
見えづらいでしょうけども、このあと出てくる曲輪などの位置を確認できるように、地図を載せてみます。
南曲輪下の南側の石垣です。
同じ南曲輪下の東側の石垣。野面積みの石が今にも崩れそうにも見えます。
二の丸の下の石垣。左下の案内のとおり、大きめの地震が来たら崩れそうですね。
二の丸。かなり広いです。お弁当を持ってきて、緑に囲まれながらのんびり過ごしたくなりますね。
二の丸にある櫓台跡です。
二の丸の北側にある、井戸曲輪跡。高い石垣に囲まれた底に、井戸があります。前回(といっても
もう4年も前ですが)来たときは井戸の前まで降りることができましたが、今回は途中で立入禁止に
なってました。東日本大震災の影響でしょうか。
本丸と二の丸の間の石垣です。
本丸跡。アヤメに似たシャガの花が本丸を中心に群生していて、特に本丸は一面、花で覆われて
います。この花、今月中旬までが見頃だそうです。正面の奥が天守台跡になります。
本丸から小田原の市街地方面を望みます。左手に二の丸が見えています。視力の悪い私の目では、
小田原城の天守閣を確認することは出来ませんでした。
天守台跡。天守閣を設けたかどうかは不明のようです。
本丸の下、西曲輪側の石垣です。
西曲輪跡。
南曲輪跡。
南曲輪から東口へと降りる城道の両側の石垣です。
最後にもう1枚、南曲輪下の石垣です。
私の写した写真ではうまく伝わらないとは思いますが、さすが“時の日”秀吉、やることが違う、とつくづく
感じる、迫力と趣きある山城です。
城跡と早川駅を結ぶ道の途中には海蔵寺という寺があり、その境内に、秀吉配下の戦国武将の一人
で、越前北ノ庄18万石の大名、堀秀政の墓がありました。織田信長の信任も厚く、小田原征伐後、秀吉
の意で関東周辺に配属されていたら歴史が変わったと思われるほどの逸材だったのですが、
小田原攻めの途中で病気になり、この地で38歳で没したそうです。
この後、小田原城に寄っていきました。次回は、小田原城の様子を記事にしてみたいと思います。
そうそう、実は、昨日、50代の仲間入りをしました。肩やら腰やら、あちこち痛むようになってきましたが、
まだまだ若いつもりで、頑張りたいと思います。"
一夜城に行ってきました。
石垣山一夜城は言うまでもなく、豊臣秀吉による小田原北条攻めの際の本陣として築いたもので、
他の、政治の中心としての城とは性格を異にしますが、その規模、構造は当時の他の山城を圧倒する
くらいのものです。
石垣山、という名称はその石垣から江戸時代に呼ばれるようになったそうで、それ以前は笠懸山と呼んだ
そうです。天正18年(1590年)4月、ここに秀吉は本陣を置き、3万人を動員して築城に着手。80日後の
6月25日に竣工し、同時に、小田原側の樹木を一斉に伐り払ったため、小田原城の頭上に、一夜にして
巨大な城が現れました。そのことから、後世、一夜城、あるいは太閤一夜城、と呼ばれるようになったとか。
この一夜城を見た小田原籠城の兵士たちは一気に戦意を喪失、7月5日の開場へと展開することに
なったそうです。
その後、小田原藩の管理下にありましたが、石垣山一夜城は城として利用されることもなく、結果として、
建物こそありませんが、石垣や土塁といった遺構が今も残っています。関東で最初に造られた石垣の
城でもありますので、一見の価値ありです。
2つある城道のうち、駐車場に近い、東口から城址へと向かいます。
ちなみに今回は初めて、マイカーではなく、JR東海道線早川駅から歩いて見ました。
舗装された車道ではありますが、上り坂を40分ほど歩いて、ようやく城址に着きました。
見えづらいでしょうけども、このあと出てくる曲輪などの位置を確認できるように、地図を載せてみます。
南曲輪下の南側の石垣です。
同じ南曲輪下の東側の石垣。野面積みの石が今にも崩れそうにも見えます。
二の丸の下の石垣。左下の案内のとおり、大きめの地震が来たら崩れそうですね。
二の丸。かなり広いです。お弁当を持ってきて、緑に囲まれながらのんびり過ごしたくなりますね。
二の丸にある櫓台跡です。
二の丸の北側にある、井戸曲輪跡。高い石垣に囲まれた底に、井戸があります。前回(といっても
もう4年も前ですが)来たときは井戸の前まで降りることができましたが、今回は途中で立入禁止に
なってました。東日本大震災の影響でしょうか。
本丸と二の丸の間の石垣です。
本丸跡。アヤメに似たシャガの花が本丸を中心に群生していて、特に本丸は一面、花で覆われて
います。この花、今月中旬までが見頃だそうです。正面の奥が天守台跡になります。
本丸から小田原の市街地方面を望みます。左手に二の丸が見えています。視力の悪い私の目では、
小田原城の天守閣を確認することは出来ませんでした。
天守台跡。天守閣を設けたかどうかは不明のようです。
本丸の下、西曲輪側の石垣です。
西曲輪跡。
南曲輪跡。
南曲輪から東口へと降りる城道の両側の石垣です。
最後にもう1枚、南曲輪下の石垣です。
私の写した写真ではうまく伝わらないとは思いますが、さすが“時の日”秀吉、やることが違う、とつくづく
感じる、迫力と趣きある山城です。
城跡と早川駅を結ぶ道の途中には海蔵寺という寺があり、その境内に、秀吉配下の戦国武将の一人
で、越前北ノ庄18万石の大名、堀秀政の墓がありました。織田信長の信任も厚く、小田原征伐後、秀吉
の意で関東周辺に配属されていたら歴史が変わったと思われるほどの逸材だったのですが、
小田原攻めの途中で病気になり、この地で38歳で没したそうです。
この後、小田原城に寄っていきました。次回は、小田原城の様子を記事にしてみたいと思います。
そうそう、実は、昨日、50代の仲間入りをしました。肩やら腰やら、あちこち痛むようになってきましたが、
まだまだ若いつもりで、頑張りたいと思います。"
お誕生日おめでとうございます。
こちらの世界にようこそ( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
あちこちが劣化していますので無理をしないようにするのが、健康?の秘訣かもしれませんね。
by suzuran6 (2014-05-10 17:28)
☆祝☆お誕生日おめでとうございます!(^^)!
僕も四捨五入で同じ50代です^^;
by まー坊 (2014-05-10 17:45)
一夜で出来たにしては立派ですね。
by ねじまき鳥 (2014-05-11 01:15)
お誕生日おめでとうございます!
萌田もこの間の8日に誕生日だったんで、近いです。
因みに9日は掛布元選手の誕生日で5月は王さんもそうですね(^O^)。
by 萌田かずきち (2014-05-11 02:46)
私も以前行ったことがありますが、これだけのものを作っていたのを気づかなかった北条勢も呑気なものですね。
by takenoko (2014-05-11 05:44)
城を築く光景、かなわないこととは言え、一度見てみたいものです。
石垣のある山城はかっこいいですね。
by しおつ (2014-05-11 18:56)
takechanさんこんばんは。
お誕生日おめでとうございます!
by ネオ・アッキー (2014-05-11 19:54)
緑が清々しい色ですね^^
by よいこ (2014-05-15 12:27)
あの急斜面を登られたんですね。お疲れ様です。今の季節なら、楽しい散歩かもしれませんね。
お誕生日おめでとうございます。健康に気を付けて頑張りませう。
by ノリパ (2014-05-17 18:04)