山中城へ (日本100名城) [東海]
もう1ヵ月近く前ですが、1月9日、静岡県三島市にある、日本100名城の一つ、山中城跡に行って
きました。山中城は、永禄年間(1560年代)に小田原北条氏が築いた城で、天正18年(1590年)に
秀吉軍の総攻撃を受けて落城しました。
その後、城として使われることもなく、結果として、約400年前の遺構がほぼ当時のままに復元された、
中世の山城としては非常珍しく貴重な存在です。
戦国末期~江戸期の、大きな水堀や石垣に囲まれた壮大な城とも違い、また建物は何も残って
いませんが、それでも、いかにも戦国時代らしい、戦闘用に造られた山城を堪能することのできる
城址です。特に、見所は、尾根を切って築いた曲輪、そして、実用的であり芸術的でもある、山中城
ならではの堀です。その形状から、畝堀、障子堀と呼ばれてます。
下の写真は、そのうち、西の丸周辺の障子堀です。
それでは、遺構(の一部)を1つ1つご覧ください。
まずは、国道1号線沿いにある駐車場に車を停めて、「障子堀・畝堀探訪コース」への足を踏み入れます。
そうするとまず目の前に見えてくるのが、三の丸堀。自然の谷を利用し、その中央に畝を設けた二重の
堀です。
元西櫓と二の丸虎口(写真奥)の間の堀に掛けられた架橋(二の丸橋)。橋脚の柱穴の遺構をもとに
復元されたものです。
二の丸。山中城最大の曲輪です。南北方向にかなり傾斜してます。
これは、本丸(手前)と二の丸(奥)の間に架けられた本丸西橋です。そして、橋の後方にあるのが、
二の丸櫓台です。
本丸と二の丸の間にある本丸西堀。畝堀の様子がよく分かります。
本丸。土塁と深い堀に囲まれてました。
本丸の北側にある天守台。どんな建物が建てられていたのかは確認できていないようです。
本丸と北の丸の間にある、本丸北橋。
北の丸。土塁に囲まれてます。
本丸西堀を北側から。見事な構造です。
西の丸を囲む障子堀。写真では分かりにくいと思いますが、深さもかなりあります。山中城の特徴が
よく現れてる堀で、かつては用水池を兼ねた水堀だったそうです。山城での水堀はかなりレアの
ようで、非常に価値ある遺構です。
西の丸の南西側の畝堀。西の丸と西櫓をぐるりと堀が囲んでいました。とてもアートな堀ですね。
西の丸。3400㎡の広大な曲輪です。
西の丸の物見台から見た富士山。手前が西の丸の北側の畝堀です。
ここで、国道1号線を挟んで反対側にある岱崎出丸に向かいました。岱崎城とも呼ばれ、秀吉の
小田原征伐に備え、山中城本条の西側に急きょ、増築されたものです。
これは、構築途上の曲輪跡だそうです。尾根を削りながら曲輪構築の工事を急いでいる途中に、
戦さに突入し、そのまま落城、ということのようです。
すり鉢曲輪の見晴台。上に行くにしたがって、傾斜角がきつくなり、写真手前から上ってみたところ、
あと2mで頂上、というあたりから、写真左手前まで一気に滑り落ちてしまいました。これでは敵も
なかなか登れませんね。私の場合、童心にかえって、二度三度と滑ってみました。
岱崎出丸の一の堀。150mの堀に17の畝が設けられてます。畝底から土塁の上まで、18~20mの
急峻な勾配になってます。これも見事な畝堀です。
岱崎出丸の広大な曲輪。遠くの方で高校の陸上部が練習してました。上り坂を走る練習かな。
出丸御馬場跡。東側と北側を土塁に、西側を堀に、そして南側を急峻な谷で囲まれた、岱崎出丸では
最大の曲輪です。
最後に、出丸御馬場堀。畝堀であったと考えられていますが、ここでは復元されてませんでした。
おまけで、山中城の縄張図を。これで、これまで書いた、山中城の様子がよくお分かりいただけるのでは。
きました。山中城は、永禄年間(1560年代)に小田原北条氏が築いた城で、天正18年(1590年)に
秀吉軍の総攻撃を受けて落城しました。
その後、城として使われることもなく、結果として、約400年前の遺構がほぼ当時のままに復元された、
中世の山城としては非常珍しく貴重な存在です。
戦国末期~江戸期の、大きな水堀や石垣に囲まれた壮大な城とも違い、また建物は何も残って
いませんが、それでも、いかにも戦国時代らしい、戦闘用に造られた山城を堪能することのできる
城址です。特に、見所は、尾根を切って築いた曲輪、そして、実用的であり芸術的でもある、山中城
ならではの堀です。その形状から、畝堀、障子堀と呼ばれてます。
下の写真は、そのうち、西の丸周辺の障子堀です。
それでは、遺構(の一部)を1つ1つご覧ください。
まずは、国道1号線沿いにある駐車場に車を停めて、「障子堀・畝堀探訪コース」への足を踏み入れます。
そうするとまず目の前に見えてくるのが、三の丸堀。自然の谷を利用し、その中央に畝を設けた二重の
堀です。
元西櫓と二の丸虎口(写真奥)の間の堀に掛けられた架橋(二の丸橋)。橋脚の柱穴の遺構をもとに
復元されたものです。
二の丸。山中城最大の曲輪です。南北方向にかなり傾斜してます。
これは、本丸(手前)と二の丸(奥)の間に架けられた本丸西橋です。そして、橋の後方にあるのが、
二の丸櫓台です。
本丸と二の丸の間にある本丸西堀。畝堀の様子がよく分かります。
本丸。土塁と深い堀に囲まれてました。
本丸の北側にある天守台。どんな建物が建てられていたのかは確認できていないようです。
本丸と北の丸の間にある、本丸北橋。
北の丸。土塁に囲まれてます。
本丸西堀を北側から。見事な構造です。
西の丸を囲む障子堀。写真では分かりにくいと思いますが、深さもかなりあります。山中城の特徴が
よく現れてる堀で、かつては用水池を兼ねた水堀だったそうです。山城での水堀はかなりレアの
ようで、非常に価値ある遺構です。
西の丸の南西側の畝堀。西の丸と西櫓をぐるりと堀が囲んでいました。とてもアートな堀ですね。
西の丸。3400㎡の広大な曲輪です。
西の丸の物見台から見た富士山。手前が西の丸の北側の畝堀です。
ここで、国道1号線を挟んで反対側にある岱崎出丸に向かいました。岱崎城とも呼ばれ、秀吉の
小田原征伐に備え、山中城本条の西側に急きょ、増築されたものです。
これは、構築途上の曲輪跡だそうです。尾根を削りながら曲輪構築の工事を急いでいる途中に、
戦さに突入し、そのまま落城、ということのようです。
すり鉢曲輪の見晴台。上に行くにしたがって、傾斜角がきつくなり、写真手前から上ってみたところ、
あと2mで頂上、というあたりから、写真左手前まで一気に滑り落ちてしまいました。これでは敵も
なかなか登れませんね。私の場合、童心にかえって、二度三度と滑ってみました。
岱崎出丸の一の堀。150mの堀に17の畝が設けられてます。畝底から土塁の上まで、18~20mの
急峻な勾配になってます。これも見事な畝堀です。
岱崎出丸の広大な曲輪。遠くの方で高校の陸上部が練習してました。上り坂を走る練習かな。
出丸御馬場跡。東側と北側を土塁に、西側を堀に、そして南側を急峻な谷で囲まれた、岱崎出丸では
最大の曲輪です。
最後に、出丸御馬場堀。畝堀であったと考えられていますが、ここでは復元されてませんでした。
おまけで、山中城の縄張図を。これで、これまで書いた、山中城の様子がよくお分かりいただけるのでは。
2012-02-02 21:57
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コメント(7)
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いい季節に行かれましたね^^
寒いかもしれないですが、やっぱりここは堀の形がよく見える時期に行ってみたいです。
by Sazaby (2012-02-03 19:35)
貴重な遺構ですね。とくに障子堀、初めて知りました。
by kohtyan (2012-02-04 09:22)
いいですね!行きたいです!今度の御用の時に行こうかと考えてましたが、ちょっと行けなさそうです。いつ行けることやら…
by ノリパ (2012-02-04 09:32)
3年ほど前に東海道歩きでここの横をすり抜けるように歩きました。
このようになっているとは知りませんでした。
by takenoko (2012-02-05 07:51)
子供の頃行ってから、もうずいぶんたちました。
すごく訪問したくなっています。
by hanamura (2012-02-05 18:03)
畝堀というのは初めて見ました。
北条氏の築城技術というのはすごかったんですねー
by haru (2012-02-07 08:55)
障子堀はすごいね。
ここに落ちたら這い上がれないだろうなぁ。
by ねじまき鳥 (2012-02-16 00:36)